霞ヶ関を住処にする霞仙人のHP


「桜咲く街」 伊勢原町の誕生

「いせはらの森」の桜並木


 川越市伊勢原町では春になると美しい桜が咲き、多くの花見客が訪れます。伊勢原町はその全域が、帝国火工品製造という工場の跡地です。その工場ではどんなものがつくられていたのでしょうか。そしてどのようにして「桜咲く街」伊勢原町が誕生したのでしょうか。その歴史的経緯をたどってみたいと思います。






地形図にみる伊勢原地区の変遷

1930(昭和5)年の地形図

1930(昭和5)年の地形図
大日本帝国陸地測量部 50,000:1 地形図 「川越」
昭和5年9月30日発行
明治40年測図 大正13年修正測図 昭和4年鉄道補入

 帝国火工品製造ができる前で、伊勢原地区は平地林になっている。東武東上線の駅名はまだ霞ケ関駅ではなく的場駅である。川越線が開通するのは1940(昭和15)年なので、まだ線路はない。西武鉄道の南大塚駅から安比奈駅まで貨物線である西武安比奈〔あひな〕線がある。西武安比奈線の開業は1925(大正14)年である。

1961(昭和36)年の地形図

1961(昭和36)年の地形図
国土地理院 50,000:1 地形図 「川越」
昭和36年7月30日発行
明治40年測量及大正12年修正測図之縮図 昭和34年部分修正測量

 帝国火工品製造は1941(昭和16)年に操業を開始した。的場駅だった東武東上線の駅名は1929(昭和4)年に霞ケ関駅に変更された。川越線は1940(昭和15)年に開通し、現在の的場駅がつくられた。

1979(昭和54)年の地形図

1979(昭和54)年の地形図
国土地理院 50,000:1 地形図 「川越」
明治40年測量 昭和54年第2回編集
資料:昭和52年改測1:25000地形図

 1970(昭和45)年に帝国火工品製造は日本油脂と合併したため、会社名は日本油脂に変わっている。会社の東側に角栄団地が造成されて、周辺の宅地化がすすんでいることがわかる。また、1975(昭和50)年に関越高速道路の川越~東松山間が開通した。

1989(平成元)年の地形図

1989(平成元)年の地形図
国土地理院 50,000:1 地形図 「川越」
明治40年測量 昭和54年第2回編集
資料:昭和61年修正測量1:25000地形図

 日本油脂川越工場の敷地の大部分は、日本住宅公団に売却された。地図上で「宅地造成中」になっているところが、住都公団によってつくられつつある「川越ニューシティいせはら」である。

1996(平成8)年の地形図

1996(平成8)年の地形図
国土地理院 50,000:1 地形図 「川越」
明治40年測量 昭和54年第2回編集
平成6年修正 平成8年要部修正(高速道路)
資料:Ⅰ、Ⅱ、Ⅳは平成7年部分修正測量1:25000地形図
   Ⅲは平成5年修正測量1:25000地形図

 徐々に住宅が造成されている。1992(平成4)年には、行政区としての「伊勢原町」が誕生した。






パンフレットにみる伊勢原地区の都市計画
むさし緑園都市 桜咲く街 川越ニューシティいせはら
川越都市計画事業 霞ヶ関土地区画整理事業 竣工記念 1992
住宅・都市整備公団 首都圏都市開発本部埼玉西宅地開発事務所

表紙と裏表紙

キャプションを追加

小見出し

ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。








はじめに

桜咲く街 いせはら竣工記念の石碑
御伊勢塚公園の塚前広場にある

 川越市伊勢原町にある御伊勢塚〔おいせづか〕公園には、多目的芝生広場、修景池、テニスコート、フィールドアスレチック、ゲートボール場などがある。ラジオ体操や太極拳を楽しむ年配の方々や、子ども連れの家族などが集う、市民の憩いの場になっている。この公園の名称のもとになった御伊勢塚古墳(注1)は、6~7世紀頃につくられたといわれている。江戸時代後期の天保年間に飢饉が起こり、伊勢講の代参(注2)が困難になったため、古墳の上に伊勢神宮を祀り、伊勢まで参詣に行く代わりにしたという(注3)。そのため、この古墳は御伊勢塚古墳と呼ばれるようになった。

 御伊勢塚公園内の塚前広場の片隅に桜咲く街 いせはら竣工記念の石碑がある(写真)。毎年、桜の季節になると、伊勢原町のメインストリートおいせ橋通りは多くの花見客で賑わう。御伊勢塚公園内にも桜の木があり、小畔〔こあぜ〕川の対岸にある小畔水鳥の郷公園(この公園の住所は伊勢原町ではなく、吉田新町であるが)でもソメイヨシノが咲き誇る。2つの公園の間を流れる小畔川の河畔にも桜が植えられている。さらに伊勢原町の集合住宅街(リバーサイド壱番街・県営いせはら住宅・グリーンコモンズ川越)と工場(日油技研工業と角栄ガス霞ヶ関工場)との緩衝地帯いせはらの森、その近くにある伊勢原緑地(この緑地の住所は的場新町である)、おいせ橋通りからリバーサイド壱番街へ向かうこのめ通りにも桜並木がある。そしておなぼり山公園でも桜が見られる。まさに伊勢原町とその周辺は「桜咲く街」なのである。

 現在の伊勢原町は、かつてはその全域が帝国火工品製造という工場の敷地であった。その工場ではどんなものを生産していたのか。そして、どのようにして「桜咲く街」伊勢原町が誕生したのか。その歴史的経緯をたどってみたい。



(注1)林織善「三芳野里舊地考」、『埼玉史談』第2巻第4号、埼玉郷土会、1931年、p.252には「上戸の最西部小畔(コアゼ)川畔には(名細村大字吉田飛地内)には高さ五間に餘る御伊勢塚の存する」ことが記されている。いつ頃からこの古墳が御伊勢塚と呼ばれていたのかはわからないが、昭和初期には御伊勢塚と呼ばれていたことが確認できる。
 また、田代茂行『川越の古墳と塚の探訪記(第二版)』、2010年、p.237~p.240には、御伊勢塚古墳の歴史と現状についての説明が載せられている。

(注2)江戸時代には、伊勢神宮に参拝するための集団(伊勢講)が各地域で結成された。旅費を積み立てておいて、くじに当たった者が代表として参詣に行った。

(注3)新井博『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』、川越郷土史刊行会、1982年、p.90~p.92に吉田長寿氏による談話として掲載されている。
 ただし、御伊勢塚公園内の塚前広場にある「公園案内サイン」には「霞ケ関の的場には、『的場六十六塚』といわれるほどたくさんの塚があり、御伊勢塚もその一つです。『御伊勢塚』の由来については、土地の人たちが御伊勢参りをしたくても“抜け参り”はご法度であったため、この地に御伊勢さんをお祀りし、御伊勢参りの代りとしたことから、この名がついたと言われています」と記されていて、新井博が紹介した由来とは少しニュアンスが異なっている。
 御伊勢塚古墳の由来については『霞ヶ関北支会30周年記念誌』、霞ヶ関北支会、1997年、p.7でも紹介されている。『霞ヶ関北支会30周年記念誌』p.8~p.9には、後述する帝国火工品製造についても簡潔にまとめられている。
 なお、1907(明治40)年に吉田の白髭神社に合祀されたため、現在は御伊勢塚古墳の上に伊勢神宮は祀られていない。

桜の季節の「桜咲く街 いせはら竣工記念」の石碑

「いせはらの森」の桜並木

小見出し

ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。

「おいせ橋通り」の桜並木
桜の季節の「かっぱ広場」
キャプションを追加

小見出し

ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。

1 工場の時代~帝国火工品製造の歴史~
(1)帝国火工品製造の設立

 現在の伊勢原町にあったのは、どんな工場だったのだろうか。話は昭和前期にさかのぼる。軍部が台頭し、大陸に進出していった時代である。日本は1910(明治43)年に朝鮮半島を植民地化していたが、1931(昭和6)年には満洲事変を起こして、「満州」(中国東北部)へも勢力を拡大していた。

 日産コンツェルンは「昭和時代前期に成立した新興コンツェルンの代表的存在」(注1)である。鮎川義介〔あいかわよしすけ〕(1880~1967)は日本産業を持株会社とするコンツェルン体制を確立し、1937(昭和12)年までに、日本鉱業、日立製作所、日立電力、日本水産、日本化学工業、日本油脂、日産自動車などを支配下に置き、「三井・三菱両財閥につぐわが国第三位の企業集団を形成した」(注2)。その後、日本産業は「満州国」に移転し、「満州国」の産業開発に専念するようになった。日本に残った日産系の企業は、満洲重工業開発と改称していた日本産業から離脱し、ゆるやかな集合体としてグループを形成した。

 日本油脂(現・日油)は、1937(昭和12)年に「日本産業の傘下にあった日本食糧工業、国産工業不二塗料製造所、ベルベット石鹸および合同油脂が合併して」(注3)誕生した。

 1938(昭和13)年7月、日本油脂は愛知県武豊町に工場をもつ帝国火薬工業を吸収合併して、火薬部門を持つようになった。ダイナマイトの生産に進出することになったのである。ただし、火薬工場だけではダイナマイトの生産はできない。火工品導火線雷管〔らいかん〕)も必要なのである。導火線は1938(昭和13)年9月に福岡県植木町(現・直方〔のおがた〕市)にあった国光火薬工業を傘下に入れることによって入手可能となった(注4)。

 残るは雷管である。雷管とは、容器に爆発しやすい起爆薬をつめた、火薬を爆発させるための発火装置である。ニトログリセリンは爆発すれば強力な爆薬であるが、火をつけただけでは必ずしも爆発しない。確実に起爆させるためには、雷管が必要なのである。雷管の発明者はノーベルである。

 1938(昭和13)年10月、日本油脂は軍用火工品や工業雷管などを生産するために、帝国火工品製造(現・日油技研工業)を設立した。「会社設立に際しては陸軍火工廠を退官した二人の軍人技師の参加があった。彼らは日中戦争の拡大などの情勢に鑑みて、軍用火工品の受注を行う民間火工品工場の設立を計画していたのであるが、たまたまそれが日本油脂の火工品工場設立計画と結び付いたわけである」(注5)。陸軍火工廠〔かこうしょう〕は、福岡村(現・ふじみ野市)にあった(注6)。

 帝国火工品製造は、陸軍火工廠に近い鶴瀬村(現・富士見市)と三芳村(現・三芳町)に工場建設用地を求めようとしたが、地元で反対運動が起こり、実現しなかった。そこで「軍部(主として陸軍造兵廠)と連携のうえ」(注7)、1939(昭和14)年に霞ヶ関村(現・川越市)と名細〔なぐわし〕村(現・川越市)にまたがる土地の買収に成功した。その面積は、霞ヶ関村が約14万5,000㎡、名細村が約25万3,000㎡で、計約39万8,000㎡であった。その後、用地は買い足されて58万4,350㎡という広大な敷地をもつようになる(注8)。

 霞ヶ関村の発智〔ほっち〕金次郎村長と鈴木泰平助役は、用地買収に積極的に協力した(注9)。相場よりも安い価格で用地を売却するよう、地権者に働きかけたのである。そうまでして工場を誘致した目的は、雇用の創出と税収の増加であった。「しかし工場が完成してみると思ったほど、地元民を採用しなかったので村長は、一部の村民から不評をかったという」(注10)。さらに、「税収の面では、名細村の方が買収面積が広かったので、名細村の方へ多く持っていかれそうになった。そこで村長は工場の事務所を霞ヶ関村分へ建ててもらって、会社から上がる営業税を両村で折半するようにしたという」(注11)。

 一方、土地の取得には成功したものの、帝国火工品製造は工場設立に苦戦していた。帝国火工品製造が申請した火薬類製造許可願は内務省から却下され、雷管の製造許可がおりなかったのである。この時期の日本経済は国家による統制経済になっており、あらゆることが国から認可を受ける対象となっていた。企業設立の手続きも極めて煩雑になり、管理が強化されていたのである(注12)。

 結局、許可がおりて工場建設が始まったのは1940(昭和15)年のことであり、川越工場が生産を開始したのは、翌1941(昭和16)年のことであった。この頃、国光火薬工業が電気雷管製造の許可を得たため、1942(昭和17)年からは「国光火薬工業(株)の導火線と電気雷管、帝国火工品製造(株)の工業雷管が並んで操業」することになり、日本油脂がめざした火薬部門の一貫生産体制が構築された(注13)。

 ただし、生産が始まっても原材料などは過去の実績による割当て制であり、新参者の帝国火工品製造への割当ては少なかった。やがて実質的に割当てを決めていた日本火薬工業組合が、施設・設備に応じた割当てに変更したことにより、ようやく帝国火工品製造の生産は拡大した(注14)。

 帝国火工品製造の主な生産品は工業雷管軍用火工品であった。工業雷管は鉱山用の雷管である。戦争遂行に必要な鉱物資源が増産されていたため、工業雷管の需要は増大していた。また、1942(昭和17)年からは砲弾や爆弾の伝火薬筒(砲弾などの規模の大きな火薬は雷管だけでは均等に爆発させることが難しいので、燃焼を安定させるために置かれる伝火薬を詰めた筒)も生産するようになった。以前より陸軍火工廠から注文を受けていた猟用雷管も含めて、帝国火工品製造では軍用火工品も大きな比重を占めていた(注15)。

 操業が開始されると「軍関係の需要の増大に結び付いて生産は軌道に乗っていたが、しかし戦争の激化、戦局の悪化につれて生産条件は急速に悪くなっていった」(注16)。国(商工省、1944年からは軍需省)から配給される原材料や動力源の供給が乏しくなり、しだいに労働者不足も深刻になっていったのである(注17)。このため、徐々に工場の操業も滞るようになっていった。



(注1)国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第11巻、吉川弘文館、1990年、p.49

(注2)『国史大辞典』第11巻、p.49

(注3)日油のHP(https://www.nof.co.jp)より。この合併については、日本油脂株式会社社史編纂委員会編『日本油脂50年史』、1988年、p.5~p.11に詳しい経過が記されている。

(注4)帝国火工品製造株式会社三十周年史編纂委員会編『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』、1968年、p.5~p.6。『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』は歴史的な記述だけでなく、火工品などの技術面も丁寧に説明されていて、たいへん興味深い資料である。
 なお、日本油脂が帝国火薬工業を吸収合併した理由については、『日本油脂50年史』p.430~p.431に「合併の理由は、①日華事変後、急速に増加した爆薬需要に対応するため、その主要原料であるグリセリン確保が帝国火薬工業(株)にとって急務であった。②当社は、グリセリン生産に余力があり、同社との合併は多角経営・総合経営という当社の設立以来の経営理念に合致する、という点にあった。また、当社にとって、帝国火薬工業(株)が所有していた函館の油脂工場も経営下におさめることができ、油脂事業の全国にまたがる大規模経営を目指すうえから、多大のメリットを享受できたことも見逃せない点である」と記されている。

(注5)川越市総務部市史編纂室編『川越市史第四巻近代編』、1978年、p.567

(注6)上福岡歴史民俗資料館/大井郷土資料館「資料館通信」、第69号、2016年7月によると、福岡村の「陸軍火工廠」は、東京府東京市王子区(現・東京都北区)にあった陸軍火工廠が「近隣地の宅地化進行で拡張できなくなったため、昭和11(1936)年8月、東京工廠福岡派出所として設置され」た。1937(昭和12)年に東京工廠火具製造所付け福岡工場、1940(昭和15)年には東京第一陸軍造兵廠第三製造所福岡工場と名称を変え、1942(昭和17)年より東京第一陸軍造兵廠川越製造所となった。

(注7)『日本油脂50年史』p.22。なお、この「陸軍造兵廠」とは、福岡村の陸軍火工廠のことだと考えられる。

(注8)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.7~p.8。
 当時の川越財界も軍需産業の誘致には熱心だった。堀口博史「軍需産業の拡大と川越」、小泉功監修『図説 川越の歴史』、郷土出版社、2001年、p.218によると、1937(昭和12)年に川越商工会議所が日本商工会議所に「当地にあっては事変によって恩恵をこうむる軍需工業の類は一つもなく(中略)軍需工場分散の見地における軍需工場設置もしくは新興工業に属する工場の誘致等は最も希望するところ(中略)下請等を軍部より引き受けられれば部分的であっても多少は好影響にあずかれる」という意見書を提出していた。また同書のp.281には、日本油脂の子会社として帝国火工品製造が霞ヶ関村と名細村にまたがる地域に誘致された経過も述べられている。
 『感動は世紀(とき)を超えて「川越物語」川越商工会議所100周年記念誌』、川越商工会議所、2000年、p.96には「川越市で外来資本による近代的工場が事業を開始するのは大正9年(1920)、日清製粉が武蔵製粉を合併しこれを川越工場としてからである。(中略)昭和10年代になると、日清紡績川越工場(12年)、新報国製鉄川越工場(14年)、東洋ゴム化学工業川越工場(10年)、帝国火工品製造株式会社(16年)がそれぞれ操業を開始した。日清製粉をはじめとする5社は東京に本社があり、工業生産額の増大には大きく貢献したのである」と記されている。

(注9)新井博『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』p.85~p.86
 なお、『笠幡 発智家文書目録』、川越市立博物館、2020年、p.112の「発智家文書追加目録」には、「帝国火工の地主への挨拶下書」という記載がある。下書が書かれたのは、1938(昭和13)年のことらしい。同目録p.115では、翌1939(昭和14)年に差出人・帝国火工品製造株式会社、受取人・霞ヶ関村長の「帝国火工品製造株式会社工場敷地・道路等分筆・買収・移転登記関係書類」という記載も確認できる。

(注10)新井博『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』p.86に「発智芳太郎氏の談話」として紹介されている。
 ただし、神田・大室「あの頃のこと」、『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関―』、川越市霞ケ関公民館、1995年、p.95では「私は十八歳で入りました。この近所の人は大抵火工廠に勤めました」という地域の住民の証言が残されている。このことから、当初は少なかった地元の人々の雇用が、しだいに増加していったのではないかと推察される。

(注11)新井博『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』p.86に「御菩薩池改次郎氏の談話」として紹介されている。
 名細村にとっても工場の誘致は大きなできごとであったと思われる。名細郷土誌編集委員会編『名細郷土誌』、1996年、p.131には「名細地区へ大きな工場が進出したのは戦前のことで、名細村と霞ヶ関村にまたがって大きな軍需工場が創業したのが始まりである。現在の伊勢原町辺りで、今は一大住宅団地となっている」と記されている。

(注12)『川越市史第四巻近代編』p.568

(注13)『日本油脂50年史』p.23。電気雷管とは、電気的に点火させる装置を内蔵した雷管のことである。
 また、『日本油脂50年史』p.37によると、戦時下の1943(昭和18)年、火工品生産体制を強化するために日本油脂は帝国火工品製造に国光火薬工業を吸収合併させた。このため、帝国火工品製造は川越工場の他に、福岡県に植木工場をもつことになった。
 なお、「日立市の歴史点描」(http://saki-archives.com/2018/nissan_capital_ranking.html)〔日立市在住の島崎和夫氏のサイト〕によると、日産懇話会本部「日産懇話会々報」第116号(1942年 1月24日発行)に、1941(昭和16)年12月現在の「日産コンツェルン内の資本金50万円以上の企業を規模によって」相撲の番付風に並べた「日産関係会社吉例・資本番附」が掲載されている。行司は株式会社日産〔2500万円〕、年寄は満洲投資證券〔4億円〕、勧進元は満業(満洲重工業開発会社)〔6億7500万円〕とされ、東の横綱は日本鉱業〔3億6022.5万円〕、西の横綱は日立製作所〔3億5800円〕である。日本油脂〔6700万円〕は西の前頭の3番目、帝国火工品製造〔150万円〕は東の前頭の34番目にランクされている。〔 〕内は資本金の額である。

(注14)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.10~p.15

(注15)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.13~p.15。なお、猟用雷管は、現在では銃用雷管と呼ばれる。確実に実包の発射薬を着火させ、銃弾を発射するための雷管である。
 国立公文書館 アジア歴史資料センターのHP(https://www.jacar.archives.go.jp)には、帝国火工品製造が東京第二陸軍造兵廠から受注した軍需物資の生産状況の記録が保存されている。資料には「整備品状況報告」として、帝国火工品製造が陸軍造兵廠に1944(昭和19)年7月、8月、11月に納入した品目、総受注額、総生産額が記されている。納入していたのは「硝宇」であった。「硝宇」とは爆薬の一種、硝宇薬(ヘキソーゲン)のことである。なお各月の資料とも、総生産額は総受注額を下回っている。1944(昭和19)年の原料・労働力不足を反映した数字だと考えられる。

(注16)『川越市史第四巻近代編』p.568

(注17)『川越市史第四巻近代編』p.568には「応召などによる職員・工員の不足も深刻になっていた。昭和十八年六月には学徒勤労動員が法制化され、本社でも中学生数百人を徴用工として用いた」と記されている。「本社」とは帝国火工品製造のことである。

メリット
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。

(2)地域からみた戦時下の帝国火工品製造

 この頃、地域では帝国火工品製造はどのような存在だったのだろうか。『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関』は、霞ケ関公民館が地域の人々の戦争体験をまとめたものである。これらの体験談のなかに、帝国火工品製造に関する記述が散見される。

 地元採用ではない工場労働者は、帝国火工品製造は民間会社であったが、地元の人々からは軍の施設と勘違いされて火工廠と呼ばれていたことや、太平洋戦争が始まると地元の小学生が草むしりに、福島県の女子青年団や「男女の高校生」(当時の旧制中学校や高等女学校、実業学校の生徒のことと思われる)などが勤労動員で工場へ来ていたことなどを書き残している。労働力不足を勤労動員で解消しようとしていたのである(注1)。また、火薬を扱う危険な仕事だったため、「作業室は三十センチ位の厚さのコンクリート壁で長屋のように区切ってありました。もし事故があっても拡散しないようにとの配慮からでした。それでも死亡事故も数件ありました」という記述が残されている(注2)。

 地元で採用された住民の証言でも「学徒動員で来ていた学生さんも大勢いました。そして圧搾をしている時に爆発事故で若い命を落とした人もいました」、「棟と棟の間がずいぶんあって間に、土手が築いてありました」、「男の人が仕事をしている所は部屋が一間くらいの幅で、一人ずつに別れて(ママ)いました。もし爆発しても一人だけで済むように」といった事故に関する記録が残っている(注3)。

 終戦時に国民学校高等科1年の生徒だった地域の住民は、帝国火工品製造に学徒動員に行ったときのことを次のように書き残している。「高射砲の玉を作る工場でしたが、時々、爆発することがあり、上司から爆発の跡を見せられて、とても怖かった事を憶えています」(注4)。

 また、霞ヶ関村にも空襲で爆弾が落ちたという証言も残っている。「東京大空襲の後だと思いますが、霞ヶ関地内にも三個所に爆弾が落ちました。おそらく帝国火工品工場の爆撃が誤ったのでしょう。霞小の裏とゴルフ場と安比奈(現、霞ヶ関中央南病院の西)です」(注5)、「二十年八月十三日、帝国火工、的場駅が機銃掃射を受け駅員が貨車の陰に隠れたが、射(ママ)たれて即死した」(注6)、「ここは火工廠や飛行場があったので、よく狙われました」(注7)といった記述から、当時の人々は帝国火工品製造が空襲の対象になっていると考えていたことがわかる。ただし、帝国火工品製造が空襲の被害にあったという記録はない(注8)。

 1940(昭和15)年には国鉄川越線(現・JR川越線)が開通した(注9)。「この頃、川越線が開通した。五両編成の貨車で帝国火工の軍事輸送関係のものが多く、的場駅からの乗客は私一人だった」(注10)、「友達の関係で、日によって自転車で学校に行ったり、川越線(軍需用の線だった)を使ったりして通学した」(注11)などの記述から、川越線は軍事用の鉄道であり、帝国火工品製造に関係する物資が優先的に輸送されている、と認識されていたことがわかる。この時期には、全国的にも鉄道輸送は「戦時下で貨物輸送重点主義、旅客輸送抑制策がとられ」ていた(注12)。

 なお、前述した工場労働者は戦後50年に際して、「この広い会社の敷地も今は伊勢原団地となり、昔の面影はありません」と回想している(注13)。



(注1)本多菊治「帝国火工品製造株式会社 川越工場のこと」、『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関―』p.63~p.65。

(注2)本多菊治「帝国火工品製造株式会社 川越工場のこと」、『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関―』p.65

(注3)神田・大室「あの頃のこと」、『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関―』p.95

(注4)長岡敏夫「高等科の生徒の頃」、『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関―』p.118

(注5)冨田雅次「戦中・戦後の霞ヶ関のこと」、『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関―』p.19。

(注6)窪田太見男「戦時下の旧制中学校生」、『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関―』p.59
 堀口博史「アジア太平洋戦争と川越市民③」、小泉功監修『図説 川越の歴史』p.224には「(霞ヶ関駅では)電車の入れ替え中、今の自動車教習所付近でP51の機銃掃射を受け、機関士が即死し、四人が負傷」という記述も残っている。

(注7)發知みね「二十歳で見聞きしたこと」、『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関―』p.86~p.87

(注8)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.19~p.20には「当時としては、当社にあっても空襲の可能性もじゅうぶんにある。空襲を受ければ、一般の工場や住宅とことなって、大被害は必至である。幸いにも、両工場とも空襲による被害はなかった」と記述されている。両工場とは川越工場と植木工場のことである。

(注9)埼玉県編『新編埼玉県史 通史編6 近代2』、1989年、p.966~p.967によると、川越財界と川越市当局は一体となって川越線の敷設運動をすすめていた。政府は1933(昭和8)年の第65議会に川越線の敷設案を上程した。「政府が川越線の敷設を具体的な日程にのせたのは、川越財界の要求をくみとったというよりは、むしろその軍事鉄道の役割に注目したからであった。すなわち、政府は満州事変ぼっ発(昭和6年)以後の軍事情勢をにらみつつ、川越線の敷設が八高線の一部(東飯能・八王子間)および既設の横浜線(八王子・東神奈川間)と相まって、帝都東京を守る外郭線を形成し、国防上必要であるとの認識に達し」ていたためであった。川越線は1934(昭和9)年に鉄道施設法の建設予定線に編入され、翌1935(昭和10)年に着工された。全通したのは1940(昭和15)年であった。
 老川慶喜『埼玉の鉄道』、埼玉新聞社、1982年、p.193~p.197にも川越線が開通した経緯について「川越線は帝都東京を守る外郭線として重視された。つまり、川越線は八高線の一部東飯能~八王子間および横浜線八王子~東神奈川間の既設線と相俟って、大東京を包む環状線を構成し、さらに東北線、中央線および東海道線の諸幹線鉄道を連ねて新たな輸送路を開き、国防上の効果がきわめて大であるとされたのである。(中略)川越線は沿線の農業、養蚕業、機業などの地方産業の発展を促進するとともに、戦時体制下で長足の発展をみた工業に関する移出入物資の輸送を円滑にし、その面で交通に寄与するところも少なくない。川越市を例にとれば、川越線の開通によって移出入物資の運賃軽減は年額三〇万円を下らぬ見込みであったという」と記されている。
 その他、川越市総務部市史編纂室『川越市史第四巻近代編』、川越市、1978年、p.319~p.333、JR東日本発行のパンフレット『80th  Anniversary 1940-2020 もっと好きになる川越線』2020年、『霞ヶ関北支会30周年記念誌』p.8、『感動は世紀(とき)を超えて「川越物語」川越商工会議所100周年記念誌』p.215、鈴木保之『鉄路よ永遠に』1992年、老川慶喜『埼玉鉄道物語ー鉄道・地域・経済ー』、日本経済評論社、2011年、p.268~p.280などにも川越線が建設された経緯が記されている。

(注10)盛田登み子「多感な娘時代の思い出」、『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関―』p.22

(注11)窪田太見男「戦時下の旧制中学校生」、『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関―』p.57

(注12)老川慶喜『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇』、中央公論新社、2016年、p.190~p.191

(注13)本多菊治「帝国火工品製造株式会社 川越工場のこと」、『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関―』p.67。
 帝国火工品製造時代の様子を知る手がかりとして、『川越市市制施行90周年記念 写真で見る霞ヶ関のあゆみ』、霞ヶ関郷土史研究会、2012年、p.58に工場の正門付近などの写真が掲載されている。
 しなのき書房編『写真アルバム 川越市の昭和』、いき出版、2012年、p.91にも『川越市市制施行90周年記念 写真で見る霞ヶ関のあゆみ』と同じ工場の正門付近の写真が載せられている。
 『川越市自治会連合会 霞ケ関北支会 創立50周年記念誌』、霞ケ関北支会、2017年、p.31にも「昭和16年の帝国火工品製造(株)」、「開発前の伊勢原地区」、「現在の伊勢原地区」というキャプションがついた写真が掲載されている。

(3)帝国火工品製造の戦後復興

 戦後直後、工場の生産はストップし、約100日間にわたって占領軍の兵士15~16人が帝国火工品製造に寝泊まりしていた(注1)。やがてGHQの指揮下で生産は再開されたものの、原材料不足に加えて、インフレの進行と食糧難が経済復興を阻害していた(注2)。1946(昭和21)年から傾斜生産方式が実施されて、石炭と鉄鋼に資金と資材が重点的に投入されていたが、経済の再生への道は遠かった。さらにドッジ・ラインによるデフレ政策も行われ、経済の低迷は続いていた。
 また、日本油脂が全額出資して設立された帝国火工品製造であったが、「終戦後は集中排除法により、当社の帝国火工品製造(株)に対する出資比率は約39%へと大幅に低下し、両社は兄弟会社の関係となった」(注3)。 1950(昭和25)年、朝鮮戦争(1950年~53年)が勃発した。朝鮮半島へ出動した「国連軍」(主力はマッカーサー率いるアメリカ軍)からの資材の発注や輸出の増加により、日本経済は「特需」に沸いた。
 帝国火工品製造の「特需」は、1951(昭和26)年にアメリカ軍からナパーム弾の信管を受注したことである。さらに照明弾81ミリ迫撃砲弾の信管なども受注した。これらのことにより、売上高は倍増を続けた(注4)。
 朝鮮戦争終結後も、帝国火工品製造は安定した経営を続けた。その理由は3つあった。1つめの理由は、インドシナ戦争(1946年~54年)の勃発により、アメリカ軍から軍需品の受注が続いたことである(注5)。81ミリ迫撃砲弾、155ミリ榴弾用火管、3.5インチロケット弾などの信管が生産された。特に81ミリ迫撃砲弾の信管は、総生産額の5割近くを占めた(注6)。2つめの理由は、新しく発足した保安隊(現・自衛隊)から特殊雷管軍用火工品の受注があったことである。そして3つめの理由は、水力発電用のダム建設がさかんになったため、雷管の需要が高まったことであった(注7)。帝国火工品製造の戦後復興は民需によるものもあったが、軍需に依存する度合いが高いものであった。
 1958(昭和33)年、帝国火工品製造は北海道に美唄〔びばい〕工場を建設し、電気雷管の製造を始めた(注8)。またこの頃には、炭鉱では立坑をつくる工法が主流になったため、瞬発式雷管では時代の要請に追いつけなくなり、爆発秒時に時間差を設けた段発式雷管の開発・製造が行われるようになった(注9)。





(注1)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.21~p.22

(注2)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.23~p.27。なお、帝国火工品製造が戦後になって初めて開発したものは、捕鯨用の信管であった。信管とは雷管に起爆時期を感知する装置と安全装置を組み込み、弾薬と一体化させたものである。

(注3)『日本油脂50年史』p.122

 なお、日本油脂の社名は1945(昭和20)4月に日産化学工業となったが、1949(昭和24)年に再び日本油脂に戻っている。
 HP「鈴木商店記念館」(http://www.suzukishotenmuseum.com/footstep/history/cat2/cat/post-219.php)には「昭和20(1945)年に入ると連合軍による本土空襲という最悪の事態を迎え、日本油脂は当初の経営理念であった多角経営・総合経営の方針を修正し、油脂事業の重点生産を強化すべく自立しやすい部門を分離する方針を決定した。この方針に従い昭和20(1945)年4月、日本油脂は日本鉱業の化学部門(12工場)と合併し、ここに新たに前記の日産化学工業と同じ『日産化学工業株式会社』の社名のもとに一大化学企業が誕生した。昭和20(1945)年8月に終戦を迎えると翌昭和21(1946)年5月、同社は財閥制限会社に指定され、政府から会社の解体分割を命じられた。その後曲折はあったが結局、同社は企業再建整備法に基づき自主的に整備計画を立てることとなり昭和24(1949)年7月、日産化学工業の事業部門の中から油脂、塗料、火薬、溶接の4部門を継承し(化学部門を存続会社とし)、日産化学工業の第二会社として(第二次)『日本油脂株式会社』の社名のもとに再スタートを切った」と記されている。

(注4)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.31~p.33

(注5)第二次世界大戦で日本が敗北した後、インドシナ半島での植民地支配を復活させようといたフランスと、それを阻止しようとしたベトナム独立同盟との戦いがインドシナ戦争である。アメリカは当初、この戦争とは距離を置いていたが、1949(昭和24)年に中華人民共和国が成立すると、アジアの共産化を恐れてインドシナのフランス軍を支援することになった。帝国火工品製造がアメリカ軍から信管を受注したのには、そういった時代背景があった。フランス軍は1954(昭和29)年に敗北して撤退したが、代わってアメリカのインドシナ半島への介入が始まった。その結果、1965(昭和40)年から本格的にベトナム戦争に突入することになった。

(注6)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.35

 三木武夫内閣が「『武器』の輸出を慎む」とする「武器輸出三原則」を表明したのは、1976(昭和51)年のことである。日本は原則として武器輸出をしない国になったのである。ところが、2014(平成26)年に第2次安倍晋三内閣が「武器輸出三原則」に代わって「防衛装備移転三原則」を閣議決定した。これによって、一定の条件を満たせば、武器の輸出と外国との武器の共同研究が可能になった。

(注7)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.35

(注8)『日本油脂50年史』p.75

(注9)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.36~p.37。瞬発式雷管、段発式雷管ともに、導火線を使う工業雷管ではなく、電気雷管である。

メリット
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。

(4)ロケット推進薬の開発

 戦時中、一式戦闘機「隼」や夜間戦闘機「月光」などの戦闘機の製造をしていた中島飛行機は、1946(昭和21)年、GHQの指令により12の会社に分割されることになった。これらの会社なかでは富士重工業(現・SUBARU)が有名であるが、解体された会社の1つに富士精密工業があった。1953(昭和28)年、富士精密工業はロケット研究を始めようとしていた東京大学生産技術研究所への協力を申し出た(注1)。両者の連携によって、国産ロケットの歴史が始まるのである。

 富士精密工業は、東京都杉並区にあった荻窪工場でロケット研究をすすめた。その際、富士精密工業が固体ロケット推進薬について協力を要請したのが、日本油脂武豊工場だった(注2)。やがて日本油脂は「ロケット推進薬の製造を姉妹会社であった帝国火工品製造株式会社(昭和45年当社に合併)に託することになった」(注3)。その結果、富士精密工業は「ロケットモーターが大きくなるに伴って、荻窪工場での燃焼実験が困難となったため、昭和31年1月、埼玉県川越市の帝国火工品製造株式会社川越工場(昭和45年7月、合併により日本油脂(株)川越工場と改称)の敷地内に川越実験所を建設し、着々とその拡充をはかった。同年12月には川越実験所内に半地下式大型ロケット燃焼実験室を完成したが、その能力は最大推力50トンで当時東洋一の規模といわれた」(注4)。

 こうして帝国火工品製造との結びつきを深めた富士精密工業は、「昭和29年11月から無煙火薬系推進薬の研究開発と並行して、コンポジット系推進薬の研究開発をすすめ、この工業化を帝国火工品製造(株)に依頼した。それは、観測ロケットを高高度に打ち上げるためには性能のよい推進薬をできるだけ多く充填することが必要であり、しかもロケットの大型化に伴い、推進薬もそれにしたがって簡単に大型化できる必要があったからである。また推進薬の性能向上、つまり比推力の向上においても当時の無煙火薬系推進薬には多くの制約があった。これ以降今日にいたるまで、コンポジット系推進薬は当社が研究開発した仕様にもとづいて、帝国火工品製造(株)が製造研究をして製品化を行なう体制がとられている。当時、コンポジット系推進薬はロケット先進国であるアメリカなどでも研究開発段階であり、外部資料はほとんど得られない状況にあったため、当社の技術陣は独力で懸命の努力を重ね研究開発の進展をはかった」(注5)。

 帝国火工品製造がロケット用固体推進薬の製造を開始したのは、1957(昭和32)年のことだったが(注6)、『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』が記された1968(昭和43)年頃には、帝国火工品製造はロケット用固体燃料では「当社の占めるシェアは圧倒的なものがあり、固体燃料の分野では90~95%もの高い割合を占め」るようになった(注7)。帝国火工品製造では、固体燃料だけではなく、ロケット用推進薬のための火工品も製造した(注8)。

 富士精密工業から改名したプリンス自動車工業は、1966(昭和41)年に日産自動車と合併した。富士精密工業で始まったロケットの研究・開発は、日産自動車航空宇宙事業部に引き継がれたのである。

 1998(平成10)年、日産自動車は手狭になった荻窪工場およびロケット用推進薬の燃焼試験設備があった的場新町の研究開発センターを移転させるため、群馬県富岡市に新工場を建設した(注9)。

 ところが、この頃すでに日産自動車の経営は悪化していた。自動車部門が不振に陥っていたのである。1999(平成11)年、日産自動車はルノーと資本提携して経営再建をめざすことになった。その際、自動車部門に経営資源を集中させるために、航空宇宙事業部は丸ごと石川島播磨重工業(現・IHI)に売却されることになった(注10)。石川島播磨重工業はアイ・エイチ・アイ・エアロスペース(現・IHIエアロスペース)という子会社をつくり、ロケット開発事業を継続している。的場新町にあった研究開発センターの富岡工場への移転も、2007(平成19)年までに終了した。IHIエアロスペースの跡地は、the market Place 川越的場、島忠HOME`S川越的場店および島忠HOME`S研修センター、ぎょうざの満洲川越本社・工場および川越的場店になっている。



(注1)宇宙航空研究開発機構(JAXA)のHP「宇宙開発の歴史」(https://www.isas.jaxa.jp/)によると、東京大学生産技術研究所でロケット研究に意欲を燃やしていた糸川英夫(1912~99)は、戦前は中島飛行機に勤務していた。前述したとおり、富士精密工業は中島飛行機の後継会社の1つである。

(注2)宇宙航空研究開発機構(JAXA)のHPによると、富士精密工業でロケットを担当していた戸田康明が、戦時中に兵器として固体燃料を研究していた日本油脂武豊工場(かつての帝国火薬工業)の村田勉に協力依頼したことから両社の関係が生まれた。武豊工場内に保管されていた戦時中の固体燃料やその製造機器が初期の固体燃料研究に使用され、そこからペンシルロケットなどが誕生した。
 『日本油脂50年史』p.450にも「昭和29年東京大学糸川教授の要請に基づき、当時の富士精密株式会社(現日産自動車(株))戸田康明氏が当社武豊工場の村田勉博士(現相談役)を訪ねてきて、推進薬の開発に協力して欲しい旨要請があった。その結果、ペンシルロケットの開発を始めたのがわが国の宇宙開発の始まりである」と記されている。

(注3)『日本油脂50年史』p.98~p.99。
 『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.49には、富士精密工業がロケット関係の業務を開始した1953(昭和28)年以来「燃料の研究は、専門メーカーと共同で開発という方針のもとに、ダブルベース系推進薬はA社、過安系推進薬はB社、硝安系推進薬はC社、コンポジット推進薬はD社へと、それぞれ研究と試作を依頼した。この時点では、当社はまだ日産の燃料に関する協力申込みは受けていない」と記されている。この記述の「日産」は富士精密工業のことである。
 富士精密工業は1954(昭和29)年にプリンス自動車工業と合併した。社名は富士精密工業であったが、1961(昭和36)年にプリンス自動車工業に変更した。そして、1966(昭和41)年に日産自動車に吸収合併された。

(注4)日産自動車株式会社社史編纂委員会編『日産自動車社史 1964―1973』、1975年、p.199。
 『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.50には「30年11月から、日産にたいして、川越工場の一部を日産の川越実験所として貸しており、このことは、日産が当社の工業化の協力を要請する大きな要因であった」と記述されている。この「日産」も富士精密工業のことである。

(注5)『日産自動車社史 1964―1973』p.199~p.200。
 なお、羽生宏人「マグナリウムの個体ロケット推進薬への適用」、『軽金属』、第58巻、第4号、2008年、p.162では「1970年代に実用化されたコンポジット固体推進薬は、ロケットを大型化に導く製造技術を生み、固体ロケットシステムの発展に大きく貢献した」として、会社名は出していないが、富士精密工業と帝国火工品製造の取り組みを評価している。

(注6)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.49で「当社のロケット燃料の研究と開発とは、すべて日産自動車(株)(日産とプリンスの合併以前はプリンス。ただし、以下合併以前の事項についても日産とする)との共同によって行なわれてきた」という記述があるが、正確には1961(昭和36)年までは富士精密工業、それ以降はプリンス自動車工業と記述するべきところである。

(注7)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.62

(注8)日油技研株式会社のHP(https://www.nichigi.co.jp/)によると「当社のロケット用火工品は、1957年より開発・生産を開始し、1970年の国産衛星第一号『おおすみ』の打ち上げ成功のほか、ほとんどの観測用ロケット、科学衛星及び商業衛星打ち上げロケットに使用され、それらの打ち上げ成功に寄与し、M-Vロケット及びH-IIAロケット等、日本の宇宙開発に大きな貢献を果たして」きたという。

(注9)「朝日新聞」1998(平成10)年4月24日付の記事による。同記事には富岡工場に「埼玉県川越市からは、ロケット推進薬の燃料試験施設が移ってきた」と記されている。
 なお、的場新町にあった日産自動車宇宙事業部研究開発センターでは移転前に大きな事故が起こっていた。1995(平成7)年5月11日のことである。1995(平成7)年5月12日付「朝日新聞」によると、「日産自動車宇宙事業部研究開発センターで、ロケットエンジンの燃焼実験をする準備中に爆発が起きた。埼玉県川越署などの調べでは、鉄筋平屋建て約百平方メートルの試験室の屋根などのほか、室内のラムジェットエンジンの実験装置が吹き飛んだ。作業はコンピューターによる遠隔操作だったため、けが人はなかった」という。この事故に対して、的場二丁目自治会が再発防止を川越市に申し入れた(「朝日新聞」8月2日付)。8月10日、川越市は日産自動車に対して燃焼実験の中止などの要請を行った(「朝日新聞」8月11日付)。日産自動車は川越市に対して、「(1)事故原因は特定できた。それを踏まえ安全な実験に努力する(2)リスクの高い実験部分はよそへの移転を検討課題とする(3)被害補償は誠意をもって対応する」(「朝日新聞」9月20日付)と回答した。

(注10)「朝日新聞」2000(平成12)年2月3日付夕刊および2月18日付の記事

(5)多角化路線へ

 話は1960年代にもどる。この頃、エネルギー革命が起こり、石炭に代わって石油がエネルギー資源の中心となっていった。石炭産業の衰退とともに産業用ダイナマイトの需要は低下し、火工品の生産は縮小された。帝国火工品製造の雷管生産のピークは1961(昭和36)年であり、それ以降は「地盤地下」が続いた(注1)。

 帝国火工品製造が生き残りのためにとった方策は、多角化だった。前述のロケット用固体推進薬の他に、開発部門の3本柱となったのがテイカウエルド、示温材(サーモペイント)、サニーコートであり、これらの開発が現在の日油技研工業の基礎を築くことになった(注2)。テイカウエルドは金属溶接の技術で「電源や熱源等、複雑な設備を必要とせず、どんな現場でも施工を行うことができ」る工法である(注3)。示温材(サーモペイント)は、「温度が変わると色が変わる便利なラベル、テープ、塗料」のことで、「電気設備・電子機器の保守、製造工程管理、食品工場の加熱殺菌処理確認、コールドチェーンにおける低温保持確認など、さまざまな分野に使用されてい」る(注4)。また、サニーコートは「建築物の内装、外装いずれにも用いられる壁材」で、「天然・人造砕石を合成樹脂で壁面に吹きつけたり、コテ塗りして用いられる」ものであった(注5)。



(注1)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.53。なお、この頃の帝国火工品製造の概要については、霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』、1962年、p.56~p.57にも記されている。

(注2)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.56

(注3)日油技研工業のHPより

(注4)日油技研工業のHPより

(注5)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.67

(6)工業用地の売却と日油技研工業の設立

 1970(昭和45)年、帝国火工品製造は日本油脂と合併することになった。「相次ぐ炭鉱の閉鎖から火工品需要が減退する一方、44年10月宇宙開発事業団が発足し、人工衛星の打ち上げ計画が本格化するにつれ、打ち上げロケットの大型化・高性能化が要請され、ロケット推進薬技術の一層の向上が求められるようになった。防衛用ロケット推進薬についても、防衛庁の品質・性能の要請はいちだんと厳しいものとなり、開発・製造の両面で新たな対応を必要とした。そこで、経営資源の有効活用によってこうした課題に応え、かつ企業規模の拡大により安定した事業基盤を確立することを共通の目的として、両社の合併が実現の運びとなった」(注1)。日本油脂は川越工場を日本油脂宇宙ロケット部の所属工場とし、「ロケット推進薬および火工品の製造を行っ」た(注2)。

 ところが「工場建設当初は、広大な敷地の上に周囲は見渡すかぎりの田畑・山林であったものが、現在では、膨張する東京の影響を受けて、工場の一歩外は、密集する住宅地と化してしまった」(注3)。この記述は『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』が発行された1968(昭和43)年頃の工場周辺の様子である。この頃までに、帝国火工品製造の東部では角栄団地が分譲されて、急速に住宅化がすすんでいたのである。1965(昭和40)年には角栄団地自治会(現・霞ケ関北自治会)が発足している(注4)。

 「火薬を製造する施設にあっては、外部の住宅などと保安距離が法律によって定められている。したがって、いかに広大な施地(ママ)をとっても、工場のへいのそばにまで住宅が密集することになれば、工場施設を工場敷地内で移転することを余儀なくさせられる事態も起ってくる。このような意味から、川越工場は、今後いろいろの問題点が起こってくる可能性を持つに至っている。30年前、ここに工場敷地を選んだときには、とうてい想像もできなかったことであ」った(注5)。

 日本油脂は、火工品やロケット用固体推進薬の生産拠点を川越工場から他の工場に移すことを計画した。その場合、川越工場の「跡地で将来性豊かな新規事業を展開する必要があったが、川越工場の地区は火薬工場の特殊性から昭和43年に都市計画法に基づく市街化調整区域の用途地域指定を受けていた。工場移転後の跡地再開発を図るには地元自治体の線引修正を受けなければならなかった。50年代初めごろには、川越工場周辺の線引修正は早期には期待できない情勢にあったが、埼玉県と川越市に積極的に運動し公共団体への譲渡であれば、線引修正可能との感触を得て52年3月、工場用地の約36万㎡を日本住宅公団に売却、54年11月引き渡しを完了した」(注6)。

 引き渡しに先立つ1977(昭和52)年5月、日本油脂は社内に「川越移転開発委員会を設け、全社をあげて工場の移転と再開発計画を積極的に推進した」(注7)。

 まず、工場の移転が行われた。1978(昭和53)年4月、宇宙開発用大型ロケット推進薬製造設備を武豊工場に、翌1979(昭和54)年5月には原料雷管の製造設備を美唄工場に、それぞれ移転した。また、それ以前に一部火工品の製造設備を関係会社の昭和金属工業に移転している。移転終了を受けて、1980(昭和55)年3月に川越工場移転開発委員会は解消され、新たに新会社設立準備委員会が発足した。工場の跡地の再開発事業に取り組んだのである(注8)。その結果、日本住宅公団(現・独立行政法人都市再生機構〔UR都市機構〕)には売却されなかった土地に新工場が建設されて、日油技研工業が設立された(注9)。



(注1)『日本油脂50年史』p.122

(注2)『日本油脂50年史』p.180
 宇宙開発に関係する火工品の製造は、日油技研工業に受け継がれている。映画「おかえり、はやぶさ」(2012年、監督:本木克英、主演:藤原竜也)でも有名な「はやぶさ」にも、日油技研工業の火工品が使用されていた。
 日油のHP(https://www.nof.co.jp/)には「『はやぶさ』に使用された日油技研工業(株)製火工品」の一覧が掲載されている。10種類の部品が供給されていたことがわかる。
 HP「JAXA小惑星探査機『はやぶさ』物語」(https://spaceinfo.jaxa.jp/hayabusa)には「2003年5月9日に打ち上げられた『はやぶさ』は、2004年5月に地球スウィングバイを行って加速し、2005年9月12日に小惑星イトカワに到着しました。そして、イトカワを周回して観測した後、2005年11月にイトカワへの着陸に成功しました。ところが、その後、燃料漏れやエンジン停止、音信不通などさまざまなトラブルがおきます。何度も帰還が危ぶまれましたが、『はやぶさ』はそのトラブルを克服し、2010年6月13日にオーストラリアの砂漠に着陸しました。『はやぶさ』は、約60億キロの旅を終え、7年ぶりに地球へ帰還したのです。さらに、帰還カプセルからは、小惑星イトカワの微粒子が発見され、その分析が進められています」と記されている。
 はやぶさPS編集部編、川口淳一郎監修『はやぶさパワースポット50』、三和書籍、2012年には「『はやぶさ』を成功に導いた鍵となる場所」(同書、p.11)として国内・海外の50の施設が紹介されている。「日油技研工業本社・工場」(p.37~p.39)は「はやぶさ」に搭載された火工品を開発・製造した場所として、「旧・IHIエアロスペース川越事業所」(p.40~p.42)は「はやぶさ」に搭載された小型ロボット「ミネルバ」の開発地として紹介されている。同書p.43には「日油技研工業本社・工場」と「旧・IHIエアロスペース川越事業所」について、「スポットの敷地は、古くには御伊勢塚公園のあたりまで広大な試験場を有し、日本のロケット開発に貢献してきた。いわば宇宙開発の聖地である」と記されている。

(注3)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.71

(注4)霞ケ関北自治会HP(https://kahokujimu.jimdo.com/)より。同HPには、帝国火工品製造についても写真と記述が掲載されている。

(注5)『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』p.72。
 『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』の巻頭には「川越工場全景」の写真が載せられている。これをみると、この頃には工場周辺に住宅地が迫ってきている様子がわかる。

(注6)『日本油脂50年史』p.180

(注7)『日本油脂50年史』p.180

(注8)『日本油脂50年史』p.180

(注9)日油技研工業のHP(https://www.nichigi.co.jp/)には「しかし、火工品の主要需要先である国内石炭産業と非鉄鉱業が衰退したため、火工品事業の大幅な事業再編を迫られると同時に、川越工場は周辺の都市化によって火薬類の大量製造が困難になっていました。リストラクチャリングによりこれらの問題を解決するために、1970年に日本油脂は帝国火工品を吸収合併しました。 そして、主要な火工品と宇宙ロケット用固体推進薬を日本油脂の他工場および子会社に移管し、川越工場の大半を日本住宅公団に売却して、残余地に日油技研工業を設立することになりました」と記されている。

2 宅地化の時代~「桜咲く街」の誕生~
(1)住宅公団から住都公団へ

 川越工場の敷地の大半は、日本住宅公団に売却された。売却された土地が現在の伊勢原町である

 日本住宅公団(1955~81)は、大都市地域の住宅不足を解消するために設立された。日本住宅公団などが建設したニュータウンや団地に居住することが、大都市地域のサラリーマン家庭のあこがれであった(注1)。「鉄筋コンクリート造の中層集合住宅、いわゆる『公団住宅』は、それまでの都市住民のライフスタイルを一新する革新性に富んだものであった。内風呂、台所と居室の分離等」(注2)の新たな生活スタイルが提案されたのである。公団住宅の抽選は高倍率になるほどの人気があったが、1970年代に入ると、大都市地域での住宅供給がしだいに充足していく。このため、日本住宅公団は以前のように公団団地を建設していればよい、という経営環境ではなくなっていた。日本住宅公団は大きな曲がり角に差しかかっていたのである。川越工場の売却は、そんな時期のことであった。

 1981(昭和56)年、日本住宅公団は組織と目的を変更する必要に迫られるなかで、住宅・都市整備公団(住都公団)(1981年~99年)となり、住宅供給から都市整備へと軸足を移すことになった。また、住宅供給についても「量から質へと転換しつつある時期」(注3)であった。後述する伊勢原町の開発は、この住都公団の時代に推進された。

 しかし、バブル経済の崩壊後、民間不動産会社だけではなく、住都公団の分譲住宅も深刻な販売不振に陥った。住都公団の存在意義に疑問の声が上がるなかで、再び組織変更が試みられ、1999(平成11)年に都市基盤整備公団(都市公団)(1999~2004)へと名称が変更され、さらに2004(平成16)年には独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)となった。1999年以降は「都市基盤整備」や「都市再生」という名称のとおり、その任務は市街地の整備などに限定され、分譲住宅からは撤退することになった。民間事業者ができることは民間で、という方向に変わったのである。都市公団とそれを引き継いだUR都市機構は、自ら新しい事業を行うのではなく、地方公共団体や民間業者と連携しながら市街地整備などを行う組織となった。



(注1)この頃の団地住民の意識については、渡邉大輔/相澤真一/森直人編著『総中流の始まり 団地と生活時間の戦後史』、青弓社、2019年で詳しく分析されている。
 また、原武史『滝山コミューン一九七四』、講談社、2007年は、東京西部のマンモス団地の住民たちが当時の革新都政を支えた母体であったことや、団地の子どもであった作者が通った小学校で行われた、全国生活指導研究協議会(全生研)の指導方法を採り入れた集団主義教育の様子が、作者の集団主義教育への嫌悪感とともに描かれている。伊勢原町の開発よりも少し前の時代の団地の空気感が伝わってくる作品である。

(注2)簗瀬範彦「ニュータウン開発物語―60年の技術史―」、『区画整理』、58号、2015年、p.8

(注3)山島哲夫「日本住宅公団から都市再生機構へ―公団の組織変更とその背景-」、『宇都宮共和大学 都市経済年報』、8巻、2018年、p.73

(2)むさし緑園都市

 むさし緑園都市(注1)は1970(昭和45)年から2018(平成30)年まで長期に渡って開発が行われた、東武東上線および関越高速道路沿いの4都市(川越市・鶴ヶ島市・坂戸市・東松山市)にまたがるニュータウンである。この都市開発構想によって、都心から40km~50km圏に7つのニュータウンがつくられた。むさし緑園都市の「特徴としては、既存市街地が点在する地域であるため、それを避けるように市街地と市街地の中間の土地を中心に開発を行っている」ことである(注2)。

 むさし緑園都市を開発順に並べると、(1)北坂戸地区(愛称「北坂戸団地」、開発テーマは「芽生えの街」)、(2)富士見地区(愛称「若葉台団地」、開発テーマは「若葉匂う街」)、(3)川越鶴ヶ島地区(愛称は「かわつるグリーンタウン」、開発テーマは「けやき並木の街」)、(4)高坂〔たかさか〕丘陵地区(愛称「高坂ニュータウン」、開発テーマは「山の辺の街」)、(5)霞ヶ関地区(愛称は「川越ニューシティいせはら」、開発テーマは「桜咲く街」)、(6)坂戸入西〔にっさい〕地区(愛称は「坂戸ニューシティにっさい」、開発テーマは「緑とせせらぎの街」)、(7)高坂駅東口第二地区(愛称は「うらら花〔か〕高坂」)の7地区となる(注3)。

 開発の中心となったのは日本住宅公団(1981年~住都公団、1999年~都市公団、2004年~UR都市機構)である。伊勢原町が「桜咲く街」となることは、住都公団によって構想されていたことなのである。

 7つのニュータウンのうち、北坂戸地区(1970年事業認可~74年事業完了)は新駅・北坂戸駅(1973年開業)の駅前開発であり、西口に一般住宅と集合住宅、東口に一般住宅が造成された。富士見地区(1973年事業認可~80年事業完了)も若葉駅の開業(1979年開業)にともなう開発であった。富士見地区は太平洋戦争末期につくられた陸軍坂戸飛行場の跡地につくられた。一般住宅と集合住宅がつくられ、緑地帯で区切られた工業用地には企業を誘致した。更地になっていた筑波大学の所有地が売却されて、ワカバウォークがつくられたのは、2004(平成16)年のことであった。川越鶴ヶ島地区(1976年事業認可~86年事業完了)では、一般住宅と集合住宅が造成された。川越鶴ヶ島地区は行政区が川越市と鶴ヶ島町(現・鶴ヶ島市)に分かれていたため、小・中学校はそれぞれの自治体ごとに設置された。

 その後は、一般住宅と集合住宅、あるいは工業分譲地区や大型商業地区など、時代の変化に応じた開発が行われた。高坂丘陵地区(1977年事業認可~90年事業完了)と霞ヶ関地区(1984年事業認可~91年事業完了)は、一般住宅と集合住宅の開発だった(注4)。坂戸入西地区(1989年事業認可~2002年事業完了)は一般住宅と工業分譲地区の開発であり、高坂駅東口第二地区(2001年事業認可~18年事業完了)は一般住宅と大型商業地区(ピオニウォーク東松山など)の開発であった。



(注1)「高坂ニュータウン情報」のHP(http://www.nextftp.com›takasaka›musashi)には、むさし緑園都市の7地区のうち6地区の位置関係が示された地図が掲載されている。

(注2)むさし緑園都市YouTube(https://www.youtube.com/watch?v=kG8pLsPw8LM)より。
 なお、簗瀬範彦は前掲論文p.13で、むさし緑園都市の特徴をクラスター型であるとして、次のように記している。「住都公団は数百ヘクタール規模の開発だけではなく、鉄道で連絡する数十ヘクタール規模の開発地区にそれぞれの特性にあった都市機能を導入し、全体で大規模なニュータウンに匹敵するクラスター型の開発事業も進めた。茨城県南部の関東鉄道沿線の常総ニュータウンや埼玉県の東武東上線沿線の『むさし緑園都市』などである。それぞれ全体で700haを超える開発規模であるが、既に個々の開発地区の沿線風景は市街地に溶け込み、そこがかつてニュ-タウンであったことを全く感じさせない。」
 また、室田昌子「持続型都市に向けたニュータウンの再生を考える」、『都市住宅学』、2018 巻102 号、2018年、p. 8では、むさし緑園都市は大都市中規模住宅型のニュータウンに分類されている。この型のニュータウンは「大都市圏郊外で、住宅を中心に商業・教育・生活機能を整備し良好な住環境を提供するNTで、(中略)事業開始が1960~80年代にわたり、戸建て中心、戸建てと集合住宅、集合住宅中心などがある」という。

(注3)むさし緑園都市の各地区のパンフレットのPDFデータをUR都市機構から提供していただいた。それによると、北坂戸地区(1975年)、富士見地区(1981年)、川越鶴ヶ島地区(発行年不明)のパンフレットには、むさし緑園都市という開発構想はどこにも記されていない。パンフレットにむさし緑園都市というキャッチフレーズが登場するのは高坂丘陵地区(発行年不明)・霞ヶ関地区(1992年)からである。高坂丘陵地区のパンフレットには「東武東上線沿線に広がるむさし緑園都市」について、「首都圏の西北部武蔵丘陵にむけて、私たちはいま6つの地区(高坂丘陵地区、北坂戸地区、坂戸入西地区、富士見地区、川越鶴ヶ島地区、霞ヶ関地区)による計画総面積約760ha、計画総戸数約23,000戸、計画総人口約88,500人というスケールの大きなニュータウン〈むさし緑園都市〉を築いています」と記されている。
 佐藤司郎「東武東上線沿線発展の核として成長-6地区で展開する『むさし緑園都市』-」、『新都市開発』、第29巻、第2号、通巻340号、1991年、p.94~p.97でも、むさし緑園都市は北坂戸地区、富士見地区、川越鶴ヶ島地区、高坂丘陵地区、霞ヶ関地区、坂戸入西地区の6地区となっている。
 高坂駅東口第二地区のパンフレットには、むさし緑園都市について「UR都市機構が、東武東上線沿線の東松山・坂戸・鶴ヶ島・川越の4市において、昭和40年代から土地区画整理事業により整備した7つの地区の総称です。北坂戸、富士見、かわつるグリーンタウン、高坂ニュータウン、川越ニューシティいせはら、坂戸ニューシティにっさい、うらら花高坂(事業着手順)で構成され、総面積は約820haです」と記されている。
 これらのことから、むさし緑園都市というキャッチフレーズが使われ始めたのは、高坂丘陵地区や霞ヶ関地区の事業がパンフレット化された頃のことであり、北坂戸地区、富士見地区、川越鶴ヶ島地区については、後からむさし緑園都市という構想に組み込まれた可能性もある。当初から東武東上線沿線の4都市にまたがるニュータウンの構想があったとしても、むさし緑園都市というキャッチフレーズは後から考えられたものと思われる。また、高坂駅東口第二地区の開発計画が構想されて、むさし緑園都市構想に加えられたのは、少なくとも佐藤が前掲論文を発表した1991(平成3)年よりも後のことである。
 なお、川越鶴ヶ島地区と高坂丘陵地区の開発の経過については、栗原啓/小原啓蔵「魅力あるまちへー公団のむさし緑園都市における試み―」、『住宅』、VOL.34、1985年、p.8~p.13に記されている。

(注4)むさし緑園都市YouTube(https://www.youtube.com/watch?v=kG8pLsPw8LM)によると、霞ヶ関地区(伊勢原町)は商業の郊外化の流れから地区内の車道沿いにスーパーマーケットやチェーン店を多く配置しているのが特徴であるという。

メリット
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。


(3)パンフレットにみる「川越ニューシティいせはら」開発計画

 むさし緑園都市の1つである霞ヶ関地区は前述のとおり、愛称が「川越ニューシティいせはら」、開発テーマは「桜咲く街」であった。いずれも住都公団が販売促進のために考えたキャッチフレーズである。

 今回、伊勢原町について調べるにあたって、UR都市機構に開発当時の資料が残っていないかメールで問い合わせてみた。それに対して、次のような返事をいただいた。「ご依頼のありました川越ニューシティいせはら地区ですが、平成6年に事業完了し、期間が経過していることから、事業に係る詳細経緯等の資料については保管されていないところです。資料確認したところ、竣工時に作成したパンフレットがPDFデータで残っておりましたのでご提供させていただきます」。

 提供していただいたパンフレット(前掲)のなかで、注目すべき点を列挙してみたい。

 p.4の1982(昭和57)年の空中写真をみると、工場の敷地の多くの部分は森林だったこと、工場の敷地の東部に角栄団地が迫ってきていること、敷地のあちらこちらに土手が築かれていること、現在のおいせ橋通りはまだないことなどがわかる。

 また、p.5~p.6の「土地利用計画」をみると、道路は計画どおりにつくられたことがわかる。公園・緑地についても、地区公園としての御伊勢塚公園、児童公園としてのおなぼり山公園かすみ野公園、さらに4つのポケットパークが計画どおりに設置されている。近隣センターは「行政・商業等施設」と位置付けられていた。商業施設としては、いなげや川越伊勢原店が出店し、2019(令和元)年にはその一角がスターバックス川越伊勢原店になった。行政の施設である公民館や図書館は、近隣センターではなく、霞ケ関北小学校の隣接地に設置されることになる。教育施設については、計画の場所に川越市立霞ケ関北小学校が2002(平成14)年に小畔川沿いから移転開校した(注1)。ただし、幼稚園の設置計画がどうなったのか、詳細はわからない。幼稚園を設置する予定だったところは、現在は住宅地になっている。住宅地は計画住宅と一般住宅に分けられている。「計画住宅」用地のうち、おいせ橋通りの南西部では、集合住宅(リバーサイド壱番街、県営いせはら住宅、グリーンコモンズ川越、リバーサイド弐番街)がつくられ、川越市伊勢原公民館・川越市立西図書館が霞ケ関北小学校と同じ敷地内に建設された。それ以外のところは一般の住宅となった。また、「一般住宅」は「1区画当りの面積を平均200㎡とし、ゆとりのある落ち着いた住宅地となるように計画されてい」た。

 p.7~p.8の「道路計画」をみると、「季節感を演出する街路樹として、幹線道路“まとつる大通り”には、地区テーマ「桜咲く街」にちなんでサクラを植え、コミュニティ道路には、カツラやハナミズキを植える」としている。“まとつる大通り”(注2)とはおいせ橋通りのことであり、桜並木が計画的につくられたことがわかる。また、コミュニティ道路とは「このめ通り」と「めぶき通り」のことである。ただし、住宅地と工場用地の緩衝地帯「いせはらの森」には、特に植樹の計画は示されておらず、ここに桜が植えられることになったのは、もう少し後になってからのことと推察される。

 p.9~p.10の「公園・緑地計画(1)」をみると、児童公園である「おなぼり山公園」は山をテーマに、「かすみ野公園」は海をテーマにして計画されたという。「『おなぼり山公園』は、既存樹であるエゴ、コナラ、クヌギなどに加えてサクラやモミジを植栽し里の山を構成。『かすみ野公園』は、既存樹のアカマツやクロマツを生かして、日本の海岸のイメージを演出」したという。4つのポケットパークは、「しいの木の森」、「ぎんなんの森」、「かしの木の森」、「いちょう広場」と命名された。また、住宅地と工場用地の間には幅10mの緩衝地帯として「いせはらの森」が設けられている。

 p.11~p.12の「公園・緑地計画(2)」では、御伊勢塚公園が紹介されている。御伊勢塚公園は1990(平成2)年度に川越市の「都市景観デザイン賞」を受賞している(注3)。修景池は景観も重視されているが、降水時の調整池としての防災機能も重要である。「1/30年確率降水時」の場合でも、修景池周辺と多目的芝生広場は浸水するが、冠水面積が公園面積の50%以下になるように設計されている。また、公園入口のかっぱ広場(注4)には「かっぱのモニュメント」が、御伊勢塚入口の塚前広場には「御伊勢塚モニュメント」が設置されている。

 p.15~p.16の「サイン・ネーミング計画」の説明のなかでは「都市計画道路『まとつる大通り』沿いの歩道には、地区のシンボルである桜の並木があり、桜の別称“夢見草”にちなんで『ゆめみの小径』とネーミングされています」とある。夏の日射しが厳しい日には、おいせ橋通りの桜並木がゆめみの小径を歩く人々に日陰をつくってくれる。ゆめみの小径にある「通り名称サイン」には、松尾芭蕉の「さまざまの事おもひ出す桜かな」という句が書かれ、桜のイメージが強調されている(「おわりに」に写真)。



(注1)旧霞ケ関北小学校の跡地は、かほく運動公園になっている。

(注2)当時、「おいせ橋通り」は的場鶴ヶ島線、通称“まとつる大通り”と呼ばれていた。ただし、「おいせ橋通り」にある「通り名称サイン」には、現在でも「まとつる大通り」と表示されている。

(注3)パンフレットには平成3年度とあるが、平成2年度の誤りである。川越市都市計画部都市景観課編『かわごえ 都市景観表彰作品集 1990―2018』、2000年発行・2019年改訂、p.3によると、第1回(平成2年度)都市景観デザイン賞に選定されたのは、正確には「御伊勢塚公園調整池」である。同書には「機能を超えた複合利用」というタイトルで「始めに公園ありき・・・・・・、調整池という機能的な側面を感じさせずに、自然な雰囲気の公園として仕上げられ、傾斜を利用して立体的な散歩が楽しめるようになっています。機能と景観を両立させる試みを高く評価したいものです」と記されている。
 なお、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部は「むさし緑園都市 川越ニューシティいせはら『御伊勢塚公園周辺地区』」を都市景観大賞に推薦した。その結果は、公益財団法人都市づくりパブリックデザインセンターのHP(https://www.udc.or.jp/publics/index/86)に掲載されている。それによると、「御伊勢塚公園周辺地区」は平成5年度都市景観大賞(景観形成事例部門・地区レベル)を受賞した
 都市景観大賞の受賞については、小池政則「むさし緑園都市 川越ニューシティいせはら『御伊勢塚公園周辺』地区」、『宅地開発』No.145、1994年、p.27~p.30にその詳細が記されている。筆者は当時、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部事業第二部事業計画第二課に所属していた。論文の内容がパンフレットとほぼ同じであることから、筆者は伊勢原町全体のデザインに関わっていたと推測される。
 また、小泉功監修『目でみる 川越の100年』、郷土出版社、1998年、p.143には、1997(平成9)年の御伊勢塚公園の写真が掲載されている。

(注4)「かっぱ広場」の名称は、名細地区周辺に伝わる「河童の伊勢参り」という伝説に由来する。埼玉県立川越高等女学校編『川越地方郷土研究』第1巻第4冊、国書刊行会、1982、p.203には「名細村の小畔川の小次郎と、伊草村の袈裟坊と三芳野村小沼のかじ坊の三人が伊勢参りをした。金遣ひが荒いので金をよく見たら田螺の蓋であったといふ」と記されている。『川越地方郷土研究』は、埼玉県立川越高等女学校校友会郷土研究室編『川越地方郷土研究』、1938年を復刊したものである。当時の埼玉県立川越高等女学校(現・埼玉県立川越女子高等学校)の教員と生徒が「郷土文化や風習などを多方面にわたって足と目と耳で調査収集し、まとめたもの」(「復刊にあたって」『川越地方郷土研究』)であった。
 川越市総務部市史編纂室編『川越市史民俗編』、川越市、1968年、p.129にも「旧名細村の小畔川の小次郎と川島村伊草の袈裟坊と坂戸町三芳小沼のかじ坊の三人がお伊勢参りに出た。金使いがひどく荒いので受け取った人が金をよく見たところたにしの蓋だったという」という話が載せられている。なお、
 新井博『埼玉県の民話と伝説(川越編)』、有峰書店、1977年、p.115~p.116
 川越市教育委員会社会教育課編『川越の伝説』、川越市教育委員会、1981年、p.126~p.127
 新井博『川越の民話と伝説』、有峰書店新社、1990年、p.115~p.116
 花井泰子 脚本/しいや・みつのり 漫画『まんが 川越のむかしばなし 第1巻』、小江戸出版会、1997年、p.185~p.187
 川越市立博物館『第四十二回企画展 妖怪ー闇にひそむ不可思議なるものー』、川越市立博物館、2015年、p.60

 『名細郷土誌』p276~p.277
 『霞ヶ関北支会30周年記念誌』p.11
などにも「河童の伊勢参り」の伝説が収録されている。

メリット
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。テキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキストテキスト...。

かっぱ広場のモニュメント
関根伸夫「3匹のカッパ」
3匹の河童たちの表情に注目です! いたずら好きに見えますか?


関根伸夫「3匹のカッパ」(1992年)について


かっぱの伊勢まいり
 川越市の名細地区周辺では、「かっぱの伊勢まいり」という伝説が語り継がれてきました。

 むかしのおはなしです。名細の小畔川の小次郎と川島、伊草の袈裟坊と坂戸、小沼のかじ坊といいます三びきのいたずら好きの河童が、仲良くお伊勢まいりに出かけました。はぶりのよい旅人になりすました三びきの河童は宿場、宿場でおおばんぶるまいをしたり、茶店では一番たかいものを食べ、土産ものも一番上等なものを買いました。あまりにも金づかいが荒っぽいので店の主人たちはあやしみだし、三人づれの旅人に気をつけろと連絡しあいました。そこでお金をよくしらべてみますと、なんとそれは田にしのふただったのです。インチキがばれてしまうとたいへんです。皆から追いかけられ、とっつかまってしまいました。そして河童だということもばれてしまい、さんざんしぼられました。それから三びきの河童はすっかりおとなしくなり、二度とふたたび旅には出なくなったということであります。
川越市教育委員会社会教育課編『川越の伝説』、川越市教育委員会、1981年、p.126~p.127




関根伸夫について
  御伊勢塚公園のかっぱ広場は、小畔川のほとりにあります。かっぱ広場には、「3匹のカッパ」というモニュメントがあります。この「3匹のカッパ」は、伊勢原町のシンボルとして制作されました。施主は住宅・都市整備公団(現・都市基盤整備公団)で、制作者は埼玉県出身の彫刻家で、環境美術の提唱者としても知られている関根伸夫(1942―2019)です。
 関根伸夫は埼玉県大宮市(現・さいたま市)に生まれ、埼玉県立川越高等学校から多摩美術大学、同大学院にすすみます。1968(昭和43)年、26才のときに第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で、「位相―大地」を現地制作しました。「大地に穴を掘り、そこから出た土を穴と同形にすぐそばに積み上げるという圧倒的な光景の鮮やかさは、美術界という狭い領域だけではなく、他の分野の人でさえも驚嘆させ」(注1)ます。
 1970(昭和45)年、関根伸夫はベネチア・ビエンナーレに参加します。そして、それから2年間、彼はイタリアに滞在し、ヨーロッパ各地をめぐります。「関根がそこで目撃したのは、イタリア社会をはじめとしてヨーロッパ社会の中で彫刻が占めていた歴史の深さであり、都市空間の中での圧倒的な存在感」(注2)でした。「この2年間が関根にとって後の方向性ー「環境美術」へと導く重要な期間となった」(注3)のです。
 そして帰国後、関根伸夫は日本で環境美術の実践をスタートさせます。


 川越市内でみられる関根伸夫の作品は以下のとおりです。

・御伊勢塚公園にある「3匹のカッパ」
・埼玉県立川越高等学校の門柱、門扉、歌碑
・札の辻ポケットパークにある札の辻モニュメントのうち、「シンボルモニュメント」
・川越市立美術館の庭にある作品

(注1)田中幸人「“野生の人”関根伸夫の不運について」、『〈環境美術〉なるものー関根伸夫展』、川越市立美術館、2003年、p.4

(注2)田中幸人「“野生の人”関根伸夫の不運について」、p.5

(注3)山田明子「関根伸夫のなかでの『環境美術』の位置付け」、『〈環境美術〉なるものー関根伸夫展』、川越市立美術館、2003年、p.10



「広報 川越」にみる「3匹のカッパ」
(1)「広報 川越」No.791(1992年)
わくわく散歩道 シリーズ82 カッパのいる御伊勢塚公園辺り〔霞ケ関北部〕
 霞ヶ関地区の北部にある、御伊勢塚公園。修景池、芝生広場、テニスコートなどを備えた公園に、カッパのモニュメントがお目見えしました(表紙写真)。
 モニュメントは、川越の伝説「かっぱの伊勢まいり」に登場する三匹のカッパをモチーフに、彫刻家・関根伸夫さんが制作。白地に小さい黒いブチの入った、いなだみかげ石が、その材料。現代に復活したカッパたちは、ちゃめっ気たっぷりの姿、公園入り口で人々の目を楽しませてくれています。(後略)

(2)「広報 川越」No.806(1993年)
都市をデザインする10 マチを読み込む作業が大切 関根伸夫さん(彫刻家)
ストーリーのあるまちに
 今全国各地で、区画整理や再開発事業によって新しいまちができています。広い道や公園が整い、快適そうに見えるのですが、どこへ行っても同じようなまちになって、個性がないんです。安全、快適であることは、まちづくりの基本ですが、これからはストーリー性が求められる時代だと思います。
 私がやっている環境美術は、彫刻を置くことで町の個性を演出することを目的の一つとしています。川越の御伊勢塚公園のカッパのモニュメントは、この付近の河童伝説に基づいて作ったものです。新しくこのまちの住民になった人に、自分のまちにこんな伝説があるということを知ってもらうことを意図したわけです。
読み込む作業で見えてくる
 まちづくりはいくつかのプロセスを経て行われるものですが、最初にしてほしいのは、まちがもともと持っている地形、歴史といった個性を丹念に調べていく作業です。個性を読み込んでいくことで、まちづくりの方向性が見えてくるはずなんです。川越の個性として、路地や川がありますが、狭い道をただ広げることを考えるのではなく、狭いなりに楽しい空間にすることを考えてもいいし、川をまちづくりの基本に据えてもいい。川を見つめながらまちをつくっていったら、穏やかな表情のまちになっていくのではないでしょうか。



『〈環境美術〉なるものー関根伸夫展』にみる関根伸夫の評価
 2003(平成15)年に川越市立美術館で、企画展「〈環境美術〉なるものー関根伸夫展」が行われました。以下は、そのときに作成された図録『〈環境美術〉なるものー関根伸夫展』、川越市立美術館、2003年に載せられた解説です。
 なお、御伊勢塚公園の「3匹のカッパ」の写真は、図録のp.66~p.69に載せられています。

(1)「
ごあいさつ」、『〈環境美術〉なるものー関根伸夫展』、川越市立美術館、2003年

 現在パブリックアートの制作に重点を置き、活躍を続ける環境美術家・関根伸夫(1942~・埼玉県立川越高等学校出身)。1968年(昭和43)、第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で「位相―大地」を発表した関根は、日本現代美術界に決定的な衝撃を与えて登場しました。この「位相―大地」は日本のアートシーンで重要な意義をもつ「もの派」の出発点となる記念碑的作品となりました。

 関根は1970年(昭和45)、ベネチア・ビエンナーレに際し日本の代表作家に選ばれ、その後ヨーロッパ各国の都市や田舎を巡ります。そこで美術が広場や都市という現実空間の中に息づき、人々の日常と深いかかわりを得ている世界を体感しました。帰国後の1973年(昭和48)に〈環境美術研究所〉を設立、「環境美術」の実現に向けて活動を開始します。(後略)

2003年4月

川越市立美術館



(2)馬場璋造「関根伸夫さんの環境美術への取り組み」、『〈環境美術〉なるものー関根伸夫展』、川越市立美術館、2003年、p.7~p.9
 関根伸夫さんは日本の環境美術、環境彫刻のパイオニアというべき存在である。その作風は重厚であるが、遊び心もあり、切れがよい。全体を見渡しての構想力もある。(中略)

 彫刻はもともと、絵画より建築や都市に近いジャンルである。ギリシャやローマの建築や都市をみれば、そのことがよく判る。建築や広場と一体になって、政治や宗教の権威や尊厳を象徴したり、広場につくられた歴史を物語る彫刻が市民の誇りとなり、都市を訪れる人びとにその都市の重みを感じさせた。彫刻はもともと環境美術であったのである。(中略)

 そして現代、まちにアートを! という掛け声とともに彫刻は台座を飛び出し、再びまちに出て行くようになった。ただ当初は戸惑いを隠せなかった。有名彫刻家の作品が環境美術の意味も判らず置かれることが多く、とくに裸婦像などは、社会の顰蹙をかったこともあった。美術作品が公共空間にあればよい、という程度の認識だったのである。

 しかし次第にパブリックアートの意味が社会的に理解されるようになってきた。その置かれる建築空間や都市空間を読んで、総合的にその空間価値を高める役割を環境美術が受け持つようになったのである。抽象彫刻の台頭がそれを加速した。美術家としての資質だけではなく、環境を読み、環境との対話ができることが環境美術家の必須条件になったといえる。ただシンボルをつくればよいのではない。美術が独立した近代、制作に関して社会的関心を持つ意味合いがあまり必要ではなくなった美術家に、社会的・環境的関心が求められるようになったのである。そして環境美術は、建築や都市と対等な立場で協同してすぐれた環境をつくり上げていくのである。

 関根さんはそうした時代の要請をいち早く察知し、環境美術のあり方を真摯に考え、その取り組み方を模索した。(後略)

 

(3)山田明子「関根伸夫のなかでの『環境美術』の位置付け」、『〈環境美術〉なるものー関根伸夫展』、川越市立美術館、2003年、p.10~p.11

 (前略)広場を中心に放射状にまちが成り立っている西洋都市では、広場のシンボルともなるモニュメントの作者=芸術家の社会的地位は非常に高く、たとえばフィレンツェのミケランジェロ、ローマのベルニーニのように、まちの尊敬を集める存在であったのである。現代においては、時に芸術家が都市計画の段階から深く係わる事例さえあった。

 西洋の都市では、確かに美術が生息していた。そして、市民はわがまちの芸術家を誇りとしており、芸術家はまちに必要な一員であった。それは、中世から綿々と続く営みで、一朝一夕の文化ではなかった。翻って、日本はどうであろうか、東京は・・・。雑然とビルが立ち並び、うえへ、うえへと伸びていく、雑多なまち。「日本に帰ったらやることがある。」

 確かな感触を得て、関根は帰国した。

 1972(昭和47)年、帰国した関根を待っていたのは、沖縄海洋博覧会でのモニュメント制作であった。ヨーロッパで描いていた「環境美術」ー環境と一体となり、人々を癒し、あるいは力づけ、見守り、よりどころになるようなシンボルーの仕事ができそうだった。ところが、日本の社会では、1人の作家に億単位の仕事を任せるようなシステムは存在しなかった。

 手ごわい壁にあたった関根は、勢いもあり、ただちに株式会社を設立するべく走った。1973(昭和48)年、自ら主宰する「環境美術研究所」の設立である。数人で立ち上げた会社だったが、オイルショックと重なり、経営的にはかなり苦しかった。沖縄の仕事も億単位のはずが、ふたをあけてみると、その予算はかなり縮小していた。それでも、沖縄県本部村にたちあげたモニュメントをみると、日本における「環境美術」の可能性が確信できた。関根は、今度は「営業」に走った。「環境美術」はおろか、「モニュメント」「パブリックアート」の言葉すら耳慣れない時代のことである。説明に時間はかかったが、ヨーロッパでの現地体験を熱く語る関根の言葉に、だんだん理解を示してくれる人も増えてきた。

 こうして「環境美術」の仕事はスタートしたのである。

 これまでの作家活動において制作してきた作品とは違い、環境美術というジャンルの制作は、一筋縄ではいかない。まず、発注者が必ずあって(しかもそれは自治体等、公共である場合が多い)、そのターゲットは、「まちのひと」である、という点である。少なくとも一方的に制作することは不可能であるし、たとえ制作・設置したとして、その後のメンテナンスは「まち」にゆだねるわけであるから、「まち」に愛されていない限り、ただの置物となってしまう。「彫刻公害」という呼び方もあるようだが、それ自体がどんなに優れた作品といえども、周囲の環境に合わず、あるいは「まち」から阻害され面倒をみてもらえない作品は、大きなお荷物ともなりかねない。

 そこで環境美術の制作においては協働、話し合い、といった作業が必要になってくる。アーティストの立場からみるとこれを「妥協」と捉える向きもあるが、関根は、この作業を楽しみ、かつ大切にしている。作品がまちに愛され誇りとなる、それが芸術本来の姿である。そのためには、ひとりよがりは許されない。求められるものをどのように実現していくかーそれが環境美術の醍醐味である。関根が主張するのは、制作において「主観」を押し付けるだけではならず、「客観」の重要性を再認識すべきだ、ということである。表現をなげっぱなしにするのではなく、その反動を確かに受け止める人の存在が大前提となっている。現代の美術シーンにおいては、作家はただ自己表現のため、あるいは誰に理解されることも望まず、わかる人だけわかってくれれば的な作品がなくもない。しかし、そういった作品が残っていくものであろうか。

 関根がヨーロッパで実感したことは、その環境にあったすばらしい作品は後世まで残り、愛されているという現実であった。環境美術に共通するのは、いずれもその場所でしか成り立たない作品となっていることである。「空間を意識するための装置」これこそが環境美術であり、それが成功したとき、まちのシンボルになっていくのである。(後略)

 

(4)伊勢原町の誕生

 行政区としての伊勢原町は、1992(平成4)年4月1日に誕生した。「昭和の大合併」で1955(昭和30)年に霞ヶ関村と名細村は川越市に編入されていたため、伊勢原町は川越市内の町名地番変更によって成立した。

 伊勢原町を構成したのは、旧霞ヶ関村の笠幡地区と的場地区、そして旧名細村の吉田地区と鯨井地区である。『名細郷土誌』によると、「平成4年4月1日町名地番変更」は以下のとおりである(注1)。

旧町名 大字笠幡字賀嘉良
新町名 的場新町・伊勢原町2丁目

旧町名 大字笠幡字台田
新町名 
伊勢原町2丁目

旧町名 大字笠幡字御伊勢原

新町名 的場新町・伊勢原町2・4・5丁目

旧町名 大字吉田字姥塚

新町名 伊勢原町4丁目

旧町名 大字吉田字御伊勢

新町名 伊勢原町2・4・5丁目

旧町名 大字鯨井字東女堀原

新町名 伊勢原町1・2・4丁目

旧町名 大字鯨井字西女堀原

新町名 伊勢原町2・4・5丁目

旧町名 大字的場字南女堀

新町名 伊勢原町1丁目

旧町名 大字的場字北女堀

新町名 伊勢原町1丁目

旧町名 町場新町

新町名 伊勢原町2丁目

 ただし、この表には伊勢原町3丁目の記載がなかったので、川越市役所都市整備課町名地番整理担当に問い合わせてみたところ、「伊勢原3丁目の旧町名は、大字鯨井字西女堀原です」との回答をいただいた(注2)。

 これらのことを踏まえて、旧町名と新町名を逆さにすると、次のようになる(注3)。

新町名 伊勢原町1丁目
旧町名 大字鯨井字東女堀原、大字的場字南女堀、大字的場字北女堀

新町名 伊勢原町2丁目
旧町名 大字笠幡字賀嘉良、大字笠幡字台田、大字笠幡字御伊勢原、大字吉田字御伊勢、
大字鯨井字東女堀原、大字鯨井字西女堀原、町場新町

新町名 伊勢原町3丁目
旧町名 大字鯨井字西女堀原

新町名 伊勢原町4丁目
旧町名 大字笠幡字御伊勢原、大字吉田字姥塚、大字吉田字御伊勢、大字鯨井字東女堀原、
大字鯨井字西女堀原

新町名 
伊勢原町5丁目
旧町名 大字笠幡字御伊勢原、大字吉田字御伊勢、字鯨井字西女堀原


 なお、現在の名細地区と霞ヶ関地区の小字については、『川越の地名調査報告書(二)』の巻末に地図が掲載されている。伊勢原地区の小字については、下の地図をご覧いただきたい(注4)。

(注1)『名細郷土誌』p.76

(注2)『霞ヶ関北支会30周年記念誌』p.15にも「霞ヶ関新旧地名図」が掲載されているが、ここでも伊勢原3丁目だけ載せられていない。
 ただし、前述の林織善「三芳野里舊地考」p.252に御伊勢塚は「名細村大字吉田飛地内」という記述があるため、再度、川越市役所都市整備課町名地番整理担当に確認したところ、伊勢原町3丁目の正確な旧小字名については「伊勢原町地内の町名地番整理につきましては区画整理事業により実施しており、この実施地区の従前土地図につきまして、保存年限が過ぎているため本市には残っておらず、申し訳ありませんが都市整備課ではご回答ができません」という返答があった。

(注3)旧名細村の小字については『名細郷土誌』p.53に「名細地区小字図」として旧名細村の小字名の地図が載っている。また、霞ケ関郷土史研究会編『霞ケ関の歴史 第二集』、1970年、p.51には「霞ケ関地区の図」として旧霞ヶ関村の小字の地図が掲載されている。

(注4)『川越の地名調査報告書(二)』、川越市教育委員会、1982年
 この地図で表記されている小字は、上記の表とはやや異なっている。

伊勢原地区の小字
『川越の地名調査報告書(二)』、川越市教育委員会、1982年

霞ヶ関地区の小字
名細地区の小字
小見出し
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。

(5)宅地の分譲と値下げによる波紋

 「朝日新聞」のデータベースを検索したところ、「朝日新聞」に載った伊勢原町に関連した記事でもっとも多かったのは、分譲宅地の募集記事だった。住都公団が「量から質への転換」をめざしていた時代だったこともあり、一戸あたりの面積が200㎡前後という「ゆとりのある落ち着いた住宅地」が分譲されていたことが読み取れる。

・1992(平成4)年7月16日付・7月19日付

1丁目 39区画 面積 約190㎡~約293㎡ 価格 約4397万円~約6971万円

・1993(平成5)年1月26日付

1丁目 32戸 面積 171㎡~222㎡ 価格 約6041万円~約8320万円

・1993(平成5)年3月17日付

1丁目 民間建物付き23区画 4LDK~5LDK 面積 約196㎡~約238㎡ 価格 約6553万円~約7998万円


・1993(平成5)年6月25日付

4丁目 36区画 面積 約171㎡~約252㎡ 価格 約3733万円~約5984万円


・1993(平成5)年9月23日付・9月29日付

4丁目 42区画 面積 約176㎡~約266㎡ 価格 約3784万円~約6552万円


・1993(平成5)年12月1日付

4丁目 民間建物付き33区画 価格 約6287万円~約7996万円


・1994(平成6)年5月25日付

5丁目 2LDK~4LDK 85戸 価格 3410万円~5027万円


・1994(平成6)年7月15日付・7月19日付

4丁目ほか 14区画 面積 182㎡~266㎡ 価格 約4332万円~約6552万円


・1994(平成6)年11月30日付

5丁目 リバーサイド壱番街 2LDK~4LDK 40戸 価格 約3411万円~約4324万円


・1995(平成7)年2月9日付

4丁目 20区画 面積 約178㎡~約266㎡ 価格 約4014万円~約7186万円


・1996(平成8)年1月24日付

1丁目 8区画


・1997(平成9)年1月31日付

4丁目 4区画

 

 ところが、1997(平成9)年8月4日付「朝日新聞」には、次のような記事が掲載された。バブル経済崩壊による販売不振対策として、住都公団は売れ残っていた分譲地の値下げに踏み切ったのである。

安売り分譲に反響、4市で100戸受け付け 住都公団

 住宅・都市整備公団が一戸当たりの価格を大幅に値下げして売れ残り住宅を三日から分譲を始めた。県内では飯能、川越、三郷、上尾の四市で計百戸の申し込みの受け付けをした。申し込みをした人たちは「価格が決め手」と値下がりを歓迎しているが、すでに居住している住民からは「割り切れない」という声も聞かれた。

 県内分では最高の四十一戸が売り出された川越市伊勢原町五丁目の「川越ニューシティいせはらリバーサイド壱番街」。一戸当たり平均四千万円前後だったのを、約千百万円値下げして売り出した。公団職員によると、二日にはふだんの約七倍にあたる三十七人の見学者が訪れ、三十九件の問い合わせがあった。各戸とも先着順で、二日夜から並ぶ人も見られたため、整理券を配って対応した。

 比企郡川島町からきた会社員AさんとBさん夫婦は、三千万円程度のマンションを探していたが、値下げになったことでほぼ希望通りの分譲価格になり購入に踏み切ったという。「金額が下がったことが大きかった」と話す。売り出し初日となった三日は十一件の契約があった。

 一方、一年前に入居したある夫婦は「ゴーストタウンになるのは困るが、割り切れなさも残る。全額は無理にしても(引き下げ額の)半額でも補てんしてほしい」と話していた。

(元の記事では、見学者の氏名と年齢が記されていたが、ここでは匿名とし、年齢も削除した。)

 

 値下げを喜んでいる契約者と、元値で購入した住民の苦々しい思いが対照的な記事である。

 その後の新聞記事からは、リバーサイド壱番街の分譲価格が値下げされていることと、リバーサイド弐番街は分譲ではなく、賃貸住宅になっていることがわかる。

 

・1998(平成10)年5月19日付

リバーサイド壱番街(第三次) 計45戸 3LDKと4LDK 価格 2894.5万円~3578万円


・1998(平成10)年9月8日付

リバーサイド壱番街(第四次) 計40戸 2LDKと3LDK 価格 2098万円~2836万円


・1999(平成11)年1月8日付

リバーサイド弐番街 計82戸 2LDK~4LDK 面積 70㎡~96㎡ 家賃 71,700円~98,400円

 

※1998(平成10)年7月21日付「朝日新聞」夕刊によると「値下げ前購入の住民1622人、住都公団を提訴 『差額の賠償を』」の見出しで、東京、千葉、茨城、神奈川、埼玉の25の団地で、1115戸に住む1622人が原告となり、住宅・都市整備公団が前年8月以降に平均20%値下げしたことに対して、損害賠償を求める訴訟を起こした。値下げ前に購入した住民たちは「原価主義に基づく価格設定を定めた公団法などに反し、不法に高いものを買わされた」などとして、約155億円の損害賠償などを求め、東京地裁に提訴した。12月には、さらに98人が原告に加わった(「朝日新聞」、1998年12月18日付)。これらの訴訟は1審、2審とも住民側が敗訴した。東京地裁では「公団の価格設定に疑問を示しつつ、『市況の変化で不利益を被るのも購入者の責任であり、公団の法的責任は問えない』」と判断された(「朝日新聞」、2001(平成13)年3月23日付)。最高裁でも原告側の上告は棄却され、敗訴が確定した(「朝日新聞」、2005(平成17)年5月17日付)。

(6)新聞記事にみる伊勢原町

 「朝日新聞」に載った分譲宅地の募集以外の伊勢原町に関連した記事を、データベースで検索してみたところ、以下の記事が見つかった。

 

 1つめは、川越西消防署の新庁舎完成の記事である。1994(平成6)年5月25日付「朝日新聞」埼玉版は、川越西消防の庁舎の完成を伝えている。

(前略)

 新庁舎は、鉄筋コンクリート造り三階建て、延べ約千四百九十平方メートル。一階は通信室や車庫、救急隊の事務室と仮眠室など、二階は事務室や食堂など、三階は講堂兼体力錬成室や会議室などがある。同市的場北一丁目にある現庁舎(軽量鉄骨二階建て)が手狭になったことから建て替えられた。

(後略)

 

 2つめは、リバーサイド壱番街の集会所が川越市都市景観ポイント賞を受賞した記事である。1994(平成6)年10月26日付の「朝日新聞」埼玉版は、川越市の都市景観表彰に公団「いせはらリバーサイド壱番街」集会所が選ばれたと報じている(注1)。

 

 3つめは、1994(平成6)年12月1日付「朝日新聞」埼玉版の記事である。鶴ヶ島駅西口と「いせはら団地」を結ぶ東武バスの路線運行が開始されることを伝えている(注2)。

 

 4つめは、霞ケ関北小学校の記事である。2001(平成13)年12月1日付「朝日新聞」埼玉版は、「来年4月に移転して公民館や図書館との複合施設になる川越市の市立霞ケ関北小学校で、同市教委は児童が使うプールや音楽室、調理実習室などを市民に有料で貸し出す」と伝えた。

(前略)

 霞ケ関北小は、児童数約980人で、市内の市立小学校33校の中で最大のマンモス校だ。現在は同市霞ケ関北6丁目にあるが、来年の新学期から約600メートル離れた伊勢原町5丁目に移転する。移転先は音楽室、公民館、図書館などが併設され、体育館と室内プールが一体になった建物がある。そのうち、有料で貸し出しする施設は、音楽室と調理実習室、図工室、多目的ホール、プールの5施設。料金は、プール以外は午前、午後、夜間に区切り、それぞれ450-2150円、プールは大人2時間で200円になる。

(後略)

 記事は「体育館やグラウンドは今まで通り学校施設として市民に無料で貸し出される。蔵書約10万冊の図書館は、児童と市民が共同で使う形になり、無料になる」とも伝えている。

 

 5つめも、霞ケ関北小の記事である。先進的な校舎と教育方法をもつ霞ケ関北小の教育が、多方面から注目を集めていたことがわかる。2002(平成14)年9月21日付「朝日新聞」埼玉版は、霞ケ関北小の2年生の授業の様子を報じている。

 

2学級同居 川越市立霞ケ関北小2年3・4組(学びの風景)

 「メダルを129個作りました。53個配ると残りは何個ですか」

 A先生が、3、4組の教室の間にあるオープンスペースと呼ばれる場所で、算数の授業を始めた。両教室と同スペースの間には、壁も仕切りもない。

 このスペースを通して完全につながっている二つの教室でも、それぞれ別の先生が同じ問題を扱う授業を始めた。2クラス計75人の児童を3グループに分けた少人数指導だ。

 オープンスペースは、4月の同校の移転改築によってできた。この教室を有効に活用しようと、B校長は「子どもたちがいろいろな先生と触れ合えるように」と考え、ペアにした2学級を2人の担任で受け持つ態勢にした。さらに、もう一人の先生を加えた約25人の少人数指導も活発になってきた。

  隣の3組の教室ではC先生、4組の教室ではD先生が教えている。D先生は、くり上がりのある足し算の復習からスタートした。

「あっちは足し算でこっちは引き算だ」

 A先生の授業を受けていたE君は隣を見て、自分の授業の内容と少し違っていることを発見。けれど、脇見はそれっきりで目はすぐに教科書に……。隣の授業の声も響いてはくるが、児童たちはあまり気にするそぶりも見せない。

 A先生は児童一人ひとりの机を回り始めた。児童が少人数のため、先生の目がよく行き届く。

 手が止まっていたFさんに、A先生は「2から5は……」と言葉を向ける。するとFさんは「引けない、だから……」と少し沈黙。しばらくして、くり下がりの引き算が自分で解けた。

 計算ができたと手を挙げた児童の机にA先生が行き、ノートに花丸をつけることができるのも少人数指導ならでは。この花丸が、児童には何よりの楽しみだ。G君は花丸をもらうと、「やった」とうれしそうに手をたたいた。「僕、勉強してきたからね」

 授業が終わると、オープンスペースは2クラスの児童が交ざり合って遊ぶ場に変わる。4組のH君は「ドッジボールも3組と交ざってやっているよ」。教室の仕切りを取ったことで、触れ合う友達の輪も広がっていく。

(元の記事では、教員および児童の氏名と年齢が記されていたが、ここでは匿名とし、年齢も削除した。)

 

 この記事で伝えられている算数の授業は、オープンスペースを生かす形で2クラスを3展開して、少人数学習をすすめているところに特色がある。また、クラスの枠を超えた人間関係の形成が可能になるというメリットにも触れている。



(注1)前掲、『かわごえ 都市景観表彰作品集 1990―2018』p.8によると、第3回(平成6年度)都市景観ポイント賞に選定されたのは、正確にはリバーサイド壱番街集会所管理事務所である。「アメニティのシンボルゾーン」として「川越のアイデンティティーを生かしながら団地集会所と貯水施設を演出。蔵造りのモチーフだけにこだわらず、塔のデザインを加え、個性的なものになっています」という評価を受けている。

(注2)伊勢原町の住民にとって、東武バスとともに地域の公共交通となっているのが川越シャトルバスである。川越シャトルバスについて川越市都市計画部交通政策課公共交通担当に問い合わせてみたところ、「平成8年10月に川越シャトル北コースが運行開始となり、その際に伊勢原町1丁目と伊勢原町2丁目が設置されております。その後、平成18年12月に路線が変更となり、当時の11系統のバス停として、いせはら団地と伊勢原5丁目が設置されました。当時の11系統は現在の11系統とはルートの異なるものであり、いせはら団地から霞ヶ関駅南口を経由する循環路線でございました。さらに路線の見直しが行われ、平成30年4月より、現在の11系統として運行しております」という回答をいただいた。

おわりに

 ゆめみの小径にある「通り名称サイン」には、松尾芭蕉の「さまざまの事おもひ出す桜かな」という句が書かれ、桜のイメージが強調されている

 前半部の「工場の時代~帝国火工品製造の歴史~」は、おもに『帝国火工品製造株式会社創立三十周年史』と『日本油脂50年史』という2冊の社史に依拠している。社史は自社の歴史を、社内資料を使って、その企業自身の責任で出版したものである。一般には見ることができない社内の一次資料を使って書かれているので、今回のように帝国火工品製造という会社の歴史を調べる場合には、必須の資料となる。ただし、社史に限ったことではないが、資料が残っていても書かれない歴史もある。特にその企業にとって負のイメージになるものには、慎重な対応がなされる。『一人ひとりの戦争体験―戦後五十年を迎えて・霞ケ関』は、霞ケ関公民館が戦後50年に地域の人々の戦争体験をまとめた冊子である。ここでは工場の事故のことなど、社史には書かれなかった、地域の人々の体験談が語られている。

 後半部の「宅地化の時代~『桜咲く街』の誕生~」は、住都公団が作成したパンフレットと「朝日新聞」の記事を主な資料としている。いうまでもなく、パンフレットは販売促進のツールとして作成されたものであるが、伊勢原町全体のグランドデザインを知るためには有用である。新聞記事については、川越市立図書館で「朝日新聞」を検索することができる。古い記事の検索も可能ではあるが、キーワード検索ができるのは1985(昭和60)年以降であるため、それ以前については調べていない。

 今回、伊勢原町について調べるために利用させていただいたのは、①川越市立図書館(中央図書館と西図書館)の蔵書、②埼玉県立図書館(熊谷と久喜)の蔵書および地形図、③川越市立図書館での新聞検索、④川越市立図書館での国立国会図書館デジタルコレクションの検索、などである。したがって、日油技研工業、UR都市機構、川越市に保存されている可能性がある一次資料にアクセスできたわけではない。さらに聞き取り調査も行っていない。今後の課題としたい。


2021(令和3)年 初冬




霞仙人のHP


むさし緑園都市のパンフレット


北坂戸地区
愛称:北坂戸団地
開発テーマ:芽生えの街


富士見地区
愛称:若葉台団地
開発テーマ:若葉匂う街


川越鶴ヶ島地区
愛称:かわつるグリーンタウン
開発テーマ:けやき並木の街


高坂丘陵地区
愛称:高坂ニュータウン
開発テーマ:山の辺の街



坂戸入西地区
愛称:坂戸ニューシティにっさい
開発テーマ:緑とせせらぎの街


高坂駅東口第二地区
愛称:うらら花高坂

CONTACT

ご質問等ございましたらお気軽にお問い合わせください。
フォームから送信された内容はマイページの「フォーム」ボタンから確認できます。
送信したメールアドレスでお知らせ配信に登録する
送信


リンク 霞仙人のページ

川越市霞ヶ関の歴史と地理を探究します

霞ヶ関を住処にする霞仙人のHP
 このHPでは、旧霞ヶ関村(笠幡村・的場村・安比奈新田)の近現代史と地理について探究します。体系的なものにはならないと思いますが、少しずつ地域の歴史と地理を掘り起こしていきたいと考えています。


迅速測図と偵察録ー明治前期の霞ヶ関ー
 明治前期に陸軍によって作成された迅速測図。そして軍事的な目的のために地域の情報を集めた偵察録。ここでは迅速測図と偵察録がつくられた時代背景と地図作成に携わった人々について考察するとともに、迅速測図と偵察録を通して、明治前期の霞ヶ関を眺めてみたいと思います。


「霞ヶ関」考-地名の探究―
 なぜ川越市に「霞ヶ関」という地名が生まれたのでしょうか。本稿では「霞ヶ関」の地名の由来に関する先行研究を紹介していきたいと思います。そして、それらの研究成果を踏まえて、「霞ヶ関」という地名について考察していきたいと考えています。




評伝 三島通良
ー没後100年・その生涯を追うー
 2025(令和7)年は、三島通良〔みしま みちよし〕(1866-1925)の没後100年にあたります。三島通良は笠幡村(現・川越市)に生まれた医学博士です。文部省の行政官として、日本の学校保健の基礎を確立することに貢献しました。
 本稿では、三島通良の生涯について記していきたいと考えています。ただし、三島通良については、その生涯を追うには資料が少なく、学校保健に関係するところには逆に膨大な資料があるため、本稿が完成するのはいつになるのか見当もつきません。
 今回は「はじめに」、「三島通良の生涯(概略)」、「三島家の歴史と笠幡時代の通良」を公開します。